GTOのブログ『学び合い』

福岡の小学校で『学び合い』を実践しています。

「一人も見捨てない」って言えばいい。

ちょっとひねくれているかもしれません。

 

今日の授業で何人かの子どもたちが「僕たちのクラスは「一人も見捨てない」クラス」と言っていました。

私はその言葉を聞いて、違和感を感じました。

 

「私が言わせているのではないか」

「「一人も見捨てない」といえば、先生は褒める、喜ぶと思っているのではないか」

 

そんな気になりました。

いや、少なからずそうなんだろうなと思います。

「一人も見捨てない」を何度も語っていると、こういうことが起こるな、と以前も感じたことがありました。

その時は、「本当にそれでいいのだろうか」と思い、「一人も見捨てない」という言葉を出すことを控えるようにしました。

 

最近は、「自分のクラスってどんなクラスなんだろう」と考える学習があったため、「その行為って◯◯だよね」と価値づけるために、「一人も見捨てない」を使う機会が増えていました。おそらくその影響もあるのではないかと思います。

 

「うーん、「一人も見捨てない」を軽く使いすぎかな」と色々反省している時に、ある先生に話しかけられ、話をしていました。すると自然とその先生が「嬉しい」と思うだろう、言葉を使っている自分がいました。

その時、「あっ」と思いました。そうか、こうやって他人とよりよい関係を築くために必要な行為を結構していうんだ、と。

 

子どもたちは私に合わせようと頑張っているんだろうな、とおもいました 。

自分が子どもたちにとってどういう存在なのか、少し考えるきっかけになりましたし、子どもたちにどういうことを語っていくべきか、これからも考え続けていこうと思いました。

 

笑って

ふふ、それってどういうことなの?(ニヤニヤ)

 

こんな関わり方が今までできていなかった。

 

え、それどういうこと?(わかってないじゃん、わかるように勉強しようよ)ときつめに言ってしまいそうになるのが昔の自分。

 

まじめに説教し続けちゃう自分。

でも笑って踊ってみると子どもたちは元気になる。案外だいじなことなも。

 

あ、眠すぎてうまく書けません。。

 

最近はこんな感じ

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最近は、このような単元表とプリントを使って授業しています。基本的に教科書がベースです。

 

今年やってるのが、「めあて」(目標)と「かだい」(すること)を分けて書いていること。

 

今までその辺りが曖昧で、課題がゴールなのか、理解することがゴールなのか、はっきりしていなかったので、分けて考えるようにするとスッキリしました。

 

ただ、スッキリしているのは子どもたちよりも私の方で、子どもたちは未だにプリントを終わらせる(課題を終わらせる)ことが目標になっているようです。とはいっても、子どもたちに「この学習のゴールはこれだ!」みたいに言ってもあんまりピンときてない、、、このあたりがずっと考えているところです。

 

追記

二学期は、この単元表を使って、どんどん先に進める子は進めるようにしていました。

すると・・・だったので(書けません)

「今日は、◯番のプリントまで、全員達成しよう」とすると、

その問題は解消されました。

「学びの個別化」っていうけど、・・・が起きてしまう以上、十分に考える必要があるな、と

先月と、昨日の学習会で気づきました。

 

 

 

1月の学習会

1月19日、早良区の子どもの学び館で、1月の学習会がありました。

3時間半にわたって、話し続けました。

 

・それぞれ最近悩んでいること

・実践していること

・クラスの様子

・結婚生活のあり方(笑)

 

などなど

いろんな話ができるからいい。

みんなで共有できるからいい。

 

この会に来ることで、自分自身がブラッシュアップできるような気がします。

ひとりで考えて、本を読んで、セミナーで話を聞いて・・・でもいいけれど

このような会で少人数でじっくり話すのが何より私にとっては大切な時間です。

そして、私にとっては、この会が原点であり、まだまだこの会のみなさんには追いつけていません。

今、『学び合い』のことで考えていること②

 

私は、過去「一人も見捨てない」を強く願って語る時期がありました。

学級経営の不安さから、というのもあったと思います。

 

しかし、願えば願う程、子どもたちへの「期待」ではなく「要求」になっていたのでしょう。

私が願ったどおりの反応や行動になって返ってこない、ひどい時は反発として返ってくることに苛立ち、落ち込みました。(後から冷静に振り返ればおかしなことをしていたのですが、当時はそんなことわかりませんでした)自分としては全力を注いでいるのにもかかわらず、子供達はどんどん離れていく、そんな感じがしました。それは、1年間の終わりまで続きました。辛い日々でした。

 

それから数年たったクラスでは、語りに全力を注がず、子どもたちの変化にも多少柔軟でいることを心がけました。しかしそれは、「傷つきたくない」という思いがどこかにありました。クラスを比べても仕方ありませんが、全力でぶつかっていった以前のクラスとは違った1年間になりました。

 

それから数年して低学年を持ち、あることに気づきました。

子どもたちが、教師の出す「雰囲気」を敏感に感じ取っているのではないか、ということを。

 

例えば、

教師が「君たちのこと好きだよ」って気持ちで語っていること

教師がニコニコしていること

教師が子どもたちの失敗を「あらまあ」と笑って流せること

 

そのような「雰囲気」が子どもたちにとって安心感を与え、語りが伝わるのではないかと思いました。

そして、私にはそれが決定的に足りてないことに気づきました。

以前のクラスの子どもたちがよく「先生、怒っているの?顔怖いよ」って言っていたことを思い出しました。

ああ、なるほど、当時から子どもたちは気づいていたんだ。語りというより、私が出している雰囲気みたいなものを感じていたことを。だから、全力で語っても「上から押し付け」「先生の勝手」なんていうように捉えていたのかもしれない、と思いました。

 

(つづく)

今、『学び合い』のことで考えていること①


『学び合い』実践者として、自分の理想というか、憧れているクラスがあります。

『学び合い』の会の先輩のクラスです。今までに2度、参観しました。

学年も、子どもたちも違うクラスでしたが、どちらも似た雰囲気を出していました。

 

「僕らはここにいていいんだ」

 

そんな感じが子どもたちからしました。

 

勉強がわからなくても、助けてくれる仲間がいるし、

大丈夫だよ、みんなで頑張ろうよと言ってくれる先生がいるし、

ちょっとうまくいかなくても、誰かが気にかけてくれるし、

先生も「ははは」と笑ってくれる。

 

そんな感じが教室に入るとしました。

参観した方は口を揃えていいます。

「あったかいクラス」と。

子どもたちと先生がにこやかに学んでいる姿は何度も見ても憧れます。

 

 

その先生と話していると、誰よりも強く「一人も見捨てない」を願っているように感じます。

そして、子ども観も学校観も、私の数倍、数百倍、濃くそして大きな器で考えている、そんな気がします。

私だったら心を乱してしまうことも、「ああ、いいよ。」とニコニコして言ってしまえる懐の深さがあります。

 

 

 

どうしたらあんな『学び合い』ができるのだろう、私は必死になってもがきました。

しかし、結果はボロボロ。自分だけが自滅することになりました。

 

 

(つづく)

1月17日

6月19日と聞いて、ピンとくる方はいるでしょうか。

 

 

 

 


福岡の先生だったら、おそらくわかるかと思うのですが、

その他の地域の方には馴染みがないかもしれません。

6月19日は福岡大空襲の日。

福岡市の小学校はおそらくこの日に平和学習をすると思います。

そして、8月6日と9日のことも。

私も福岡大空襲のことは、祖父母から小さい時に何度も話を聞いたことがあったので、とても身近に感じる昔のことでした。

現在小学校の教師になった時も、祖父母に聞いた話を子どもたちにすることがあります。

 


さて、今日は1月17日。今朝、ある方の投稿によって思い出しました。ああ、そうか。身近じゃないってこういうことなのか、と思いました。実際に経験したわけでもないけど、テレビで見たのは覚えています。阪神淡路大震災

 


思い出したからといって、何かできるわけじゃないんですが、

忘れて素通りするよりはマシかなと思い、職場で話題にすると、「ああ、子どもたちに話した方がいいかな」という話になりました。

 


他にも身近ではない、過去の震災や災害のこと。過去の戦争のこと。沖縄や北方領土のこと・・・関係のある方にとっては「何でそんなに関心薄いの?」と思われ、怒られても仕方ないことはたくさんある気がします。

 

いったい私たち教員はどこまで関心を持って、どこまで子どもたちに伝えていけばいいのか。

一つだけ思っているのは、「忘れないこと」「知ること」かな、と思います。

そう考えると一年に一回の平和学習も意味があるように感じます。そして、今日の日が何の日だったか、ということも。

 

 

そんなことをモヤモヤ考えていました。