GTOのブログ 『学び合い』で楽しい学校生活

福岡の小学校で『学び合い』を実践しています。

別にいいんじゃないの

私は休み時間は、好きにしたらいいと思っています。

友達と思いっきり遊んだらいいと思っています。

特に低学年はそれでいいんじゃないかなと思います。

 

遊びの中から学ぶとか、友達と過ごす貴重な時間とか、形の見えない経験を得る時間だという考えもあると思いますけど、その前に誰だって休憩したいでしょ。ちょっとくらい。

 

私も休憩したいですよ。のんびり。

子どもたちと触れ合ったり、片付けしたり、ぼーっとしたり…。

 

学校ってなんか追われてるんですよね。子どもも、教師も。

休み時間までわざわざする課題をする必要あるのかなあ。

別にいいんじゃないの って言えないのかなあ。

 

ああ、余裕のなさからいろんなところにしわ寄せがきていることを実感しているので、少し機嫌悪いです。なんでこんなに雑務が多いのかしらねえ。

 

 

 

「分かる」ということ

一年生を担任して「わかる」とは、どんなことなのか、子どもたちの様子から

ずっと考え続けてきました。

 

「~を理解できるようになる」

「~を説明できるようになる」

「~が分かる」

 

『学び合い』では、このような課題を出すことが多いです。

私も実際にこのような課題を出してきました。

「3人以上に説明して、納得してもらったらサインをもらう。できなかったら改良して、他の人に聞いてもらう」など、細かいことも指示していました。

 

中学年~高学年では、これでもなんとかなりました。

それは子どもたちなりに「分かる」というものが何なのか、認識していたからだと思います。また、その「分かる」はテストの点数につながることも、子どもたちは認識していたと思います。

 

しかし、1年生に「分かる」ということは何なのか、全然伝えられないし、子どもたちも納得できないままでいました。1学期の『学び合い』はその確たるもの。

答えのプリントを置いておいても、間違いをそのまま〇にしていたり、〇にしているけどよくわかってなかったりすることが何度もありました。

 

「説明できる」という課題にしても、ただ書かれた文章を読むだけ。

「納得してもらう」というのも適当にサインを交換するだけ。

 

これは非常に考えました。

ある時、「先生もう一枚ください」とプリントを取に来る子がいました。

自分でやってみるというのです。その時私はこれだ!と思いました。「分かる」というのは「自分でできる」ということなんだ、と。

 

1学期末、ひらがなの「は」「を」「へ」の使い分けを考えるプリントを『学び合い』の課題にしました。そして「プリントを〇つけしたあと、もう一度自分で同じプリントをしてみて分かったかどうか確認してみたら?」と提案して『学び合い』をはじめてみました。

 

すると、数名の子が何度も同じ問題を解いては何度も間違えます。

その時、ああなるほど。と思いました。「子どもたちの『分かる」ってそんな簡単なものではないんだ。少しずつ身についていくものなんだ」と。

そして、このように自分で「分かる」まで同じ問題を解き続けるような

「自分は~が分からない」という認識が持てるようになることが必要だと思いました。

 

ならば、「あなた分かっていないよ」と気づかせてあげるのは、誰か。

それは、子どもたちだと思います。もちろん、教師が言ってもいいのですが、30人近くの理解度を調べたところで、ものすごく時間がかかります。結局、子どもたちがお互いに相互評価できるようになることが「分かる」へつながるんだと思いました。

 

このように一年生を担任して

「分かる」というのは、「自分でできる」「分かっているか相手に説明できる」ことなんじゃないかなと思えるようになりました。

 

これは、高学年を担任していた時には、気づかなかったことです。

結局のところ、本などで紹介されている「〇人に説明できるようになる、納得してもらったらサインをもらう」に行きつくことになるのでしょうけど、何となくこの課題を出すことと、「分かる」とは何か、意識して課題を出すことは全然違うんじゃないかなと思いました。

 

なんてこった


2000字くらいの投稿をつくっていたのに、
消してしまいました。

 

ショックなので、今日の投稿はここまでにします。

すみません。

今日の気づき

今日は『学び合い』の会

 

気づき備忘録

・自分の考えと、学級の状態、感動する話をくっつけてお便りを出すべき

 

・子どもの行動をやっぱり受け入れて、笑う

 

・子どもは自分の都合のいいように親に言う。

そういうリスクマネジメントをしなければいけない。特に低学年は、子どもの後ろに親の姿が見える。

あの頃とはちがう

今週、久しぶりに数名の子どもたちと遊びました。

昼休みに少し余裕があったからです。

子どもたちはとても楽しそうでした。

 

いつもの私の昼休みは宿題の丸付けをした後、お便り作ったり、プリントを印刷したり、高学年の委員会の仕事をしたり…ということをしています。本当はその仕事を別の時間にして、子どもたちと遊んだりすることに使った方がいいでしょうけど、残念ながら、今の私にそんなに残業できる余裕はありません。

 

まだ独身で、若手の頃はよく子どもたちと外で遊んでいました。子どもたちを下校させた後、お便りを作ったり、教材を作ったり…今私が昼休みにやっているようなことをしていました。残業する時間は長くはなってしまっていたけど、家に帰ってからも余裕があるので、あまり気になりませんでした。

 

ふとその頃のことを思い出しました。

もちろん、ライフスタイルが変わってしまったから、同じようにはできないんでしょうけど、子どもたちはどう感じているのかなと思いました。子どもたちは勉強よりも、課題よりも先生や友達と一緒に遊ぶことの方が、楽しいだろうなあと思いました。

私は、子どもたちにとって何が大切か、ということを一生懸命時間内に実行しているわけですが、当の子どもたちは、もしかしたら満足していないのかもしれません。

私がやっていること、教えていること、させていることなんかより、一緒に遊んだほうが、ずっと子どもたちにとっては喜ばしいことかもしれません。

 

もし、来年彼らが私よりも若い先生が担任になって、たくさん遊んでもらって、

「先生大好き」となれば、私のことなんてすっかり忘れてしまうでしょう。

でもそれでもいいと思っています。

私は、私の立場で、子どもたちにできることをしたい。

遊んで子どもたちとの関係を作るのではなく、授業の中で行いたい。

 

まあそれでも、その授業の質をよくしようと思うばかりに、余裕がなくなってしまうのは、本末転倒なのかなとも思います。

 

ああでも、来週はもうちょっと遊ぼうかな。

ちょっと子どもたちと距離がありすぎていて、自分自身がさびしくなってきたのかもしれない。

 

1年生相手でも

今日は、1年生相手に真剣に話しました。

昨年の6年生に話したようなことです。

 

内容は「みんなが本当に勉強がわかる仲間になろう」のようなことです。

 

昨年も語り続けましたが、時間が足りなかったことと、私自身の力のなさのため、思うようにいきませんでした。

 

そもそも「みんながわかるように」というのは、高いレベルのことを求めていると思います。子どもそれぞれ「わかる」の認識が違うのに、それをどうすり合わせるのか。

 

わかった気になっている子、

いい加減に丸つけしている子に、

どれだけ気づき「それ違うよ」と言えるか。

自分がよくわかっていないことに、どれだけ気づけるか。気づかせてもらえるか。

 

高学年の担任の時は感じました。

「自分が分かるならそれでいい」と心のどこかで思っている子たちに、「みんながわかること」が得だということを伝える難しさを。

 

一年生には、まだそこまで「自分が」というものはなく、「誰かのために」ということを素直に受け止めてくれそうです。だからこそ、今、経験してほしい。仲間になってほしい。

私にできる、残りの小学校生活に生かせることは「みんなが勉強がわかる」ような仲間になることです。

 

 

 

 

 

反省

今日の『学び合い』は課題が難しかった。

時間内に終わりませんでした。

でも2割の子はできていました。

 

つまり

時間をもっと確保できなかったこと、

声かけが足りなかったこと

 

が課題だと思います。

 

あと、保護者が来る時は、もう少し

全員達成しやすい課題にすべきかなと。

課題達成できなかった子が、目立ってしまいがち。

 

ああ、今回は反省点が多かった。

明日も頑張ろう。