おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

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教師の評価

今日は、物語の一節を読み、「 」を工夫して読めるようになる、という課題にしました。

 

「」については、誰がそれを話しているのか、

どんな様子なのかを、本文を根拠に確認する授業を事前に行っています。

 

ただ、この課題は子ども同士の評価だと、

どうしても甘くなるだろうなと思っていました。事実、前の時間に同じような内容を行なったら、あやふやな子が結構多かったです。だからここは教師の個別評価を行いました。

 

観点を決めて、一人一人チェックしていきます。このやり方のメリットは、個別評価を記録しやすいこと、このやり方のデメリットは、集団が見えにくくなることです。

 

目標は、一人も見捨てない集団になることなので、誰が課題の評価をするかはそんなに問題ではないと思います。それさえ踏まえておけば、

場合によっては教師が個別評価するのもありかなあと思います。

 

ちょっと一歩進んだかのかな、、、

聞き取る

くりあがりの足し算の問題の答えを10問、聞いて書き写すことを子どもたちにさせました。

 

例えば、9たす6は15!

(子どもたちは15を書く)

そんなに難しい作業じゃないと思っていたんですど、6名が途中でついて来れなくなり、後から書き写すことになりました。

 

これを見たとき、

「ああ、1年生の子どもは聞いて書くのが難しいんだ」と改めて思ったと同時に反省しました。コピーすりゃよかったんです。

 

要するに何が言いたいかというと

私の話を聞き取ることができるのって一部で、

私はそれをいつの間にか、全員が聞き取っていると錯覚することがあるということです。

 

まあ、人によっては、「聞く力」を養うことが必要だという人もいるけど、それよりも、

「ねぇ、先生なんて言ったの教えて!」と言えるようになる方が早いし、今後のためになるんじゃないかなと思いました。

 

さ、明日も頑張ろう。

やや体調が悪くなってきてます。

一人旅で感じること

今、一人旅中です。

何年振りだろう。

学生や独身の頃は定期的に、

一人でフラフラ出かけていました。

特に電車の旅が好きで、のんびり景色を

見ながら、本を読んだり、物思いに耽ったりしていました。

 

家族ができてから、そんな暇はなくなって

しまったので、とても久しぶりです。

 

さて、たまたまですが、昔書いていたブログを読みました。『学び合い』に出会う前、このブログをするまで、日記のように書いていたブログですが、誰かに発信するわけでも、見てもらおうとしてるわけでもなかったので、自分の想いを思いっきり書いていました。

 

文字で読むと、当時の想いが蘇ってきます。

特に懐かしくなったのが、無職だった時のことです。

 

訳あって周りよりも遅れて大学を卒業した後、しばらく無職とフリーター生活をしていました。

 

恋人がいるわけでもなく、

決まった仕事があるわけでもなく、

かといって遊びたいわけでもない。

 

モヤモヤしたまま日々を過ごしていました。

この時の経験が後にキャリア教育の必要性を強くさせるのですが、当時はかなり苦しかったんだとブログを読んでいて感じます。

 

出口の見えない日々を過ごすことって、

とてもストレスなんだろうなと思います。

いろんな方法で紛らしていましたが、

やっぱりその時に「教師になりたい」という目標が一番心強かったように思います。

 

それから、地元に戻り、スムーズとはいえませんが、教師になり、今に至ります。もうそれから8年近くもたってしまいました。

 

仕事と家族でのことで日々忙殺されて、当時のような苦しさを感じることや、こんなことを思い出すこともありませんでした。

 

仕事があって、

やりがいがあって、家族がいて。

仲間がいて、新しい悩みがあって。

あの時に比べて幸せなんだろうな。

もちろん、あの時は今できないことを

たくさん経験することができた。

あの時があったから、今がある。

 

いろいろ感じていた、一人旅でした。

 

 

 

150人

私が『学び合い』の考え方を通して担任した5学級、計150人近くの子どもたちふと『学び合い』1年目のクラスのことを思い出すと、「あんな自分でごめんな」と思ったり、今のクラスにも「こんな自分のでごめんよ」と思ったりします。実践と経験を積んで、もしかしたら、『学び合い』の授業自体は、だんだん質が高まってきているかもしれません。でも『学び合い』を一年間続けたということで保証される「安心」はどのクラスも同じなのかなと思うと、少し救われたように思えます。
 
そういえば、1年目のクラスは、5年間のクラスでは唯一無二のクラスだったし、あのクラスでしかできないこともあった。いつも「あの時と比べて〜」ではいけない。私も子どもたちも、「あの時」が、その時の最高だったことも忘れてはいけないな。
 

自分の想いをつらつらと

『学び合い』に出会ってから、どんどん自信を失っているように感じます。

 

「ああ、今日もうまくいかなかったなあ」

「・・・の時気づいてあげられなかったなあ。」

「なんであんなこと言ったんだろう」

 

そんなことを反省します。

 

隣のクラスの先生や、他の実践者の方と話をしていると

「子どもたちがいきいきしているなあ」

「笑顔がすてきだなあ」

 

自分に足りないことが、見えてきて沈みます。

 

決して私は、ネガティブなタイプというわけではありません。前向きに何事も行う方です。

ただ、「理想像」というものがあるわけではないんですけど、「自分がこうなりたい」という姿がボヤっとあって、それに足りてなかったり、全然それてしまってしまうと、「あーあ」ってなるんですね。

 

決して謙虚とかそんなのでもありません。

周りからは自信に溢れているといわれることが多いですし、時々「自分でなんでもできると思ってる」と指摘されることもあります。

 

謙虚に振る舞おうと思ってるのではなく、

誰からか学ぼうとしているのではなく、

人から自分に足りないもの、自分にはないものを、見つけたり感じたりするので、

いつの間にか、ちょっとだけ後ろ向きなことを思ったり自信なさげだったりするんです。

 

そして、

結局のところ、「人間性」とか「器」とかという言葉に落ち着くんです。

『学び合い』に出会って、自分の人間性とか器が分かってきたんだと思います。そして、それが現れるんだと思います。

 

子どもたちへ語ること

子どもたちを信じること

よりよい課題、評価を行うこと

 

これらすべてが、試されるのが『学び合い』だと思います。

毎年、毎年、試されて落ち込む。

知識が足りなければ本を読むし、

悩みがあれば相談する。

そして、また落ち込む。

 

自分の成長を感じられたら、少しは前向きになるんだろうけど全然それを自分で感じることができないし、しようと思っても、目の前の子どもたちの姿がまさに自分そのものだから「ああ自分成長したな」って実感することがなかなかできない。

 

 

少し前に「この会に来た時と比べて変わったよね」とある先輩に言われたことがありました。

すごく救われた言葉でした。

 

「子どもたちがどんどん勉強しているね」

「先生、勉強が楽しいです」

「うちの子が、このクラスがとても楽しいと言っています」

 

同僚や子どもたち、保護者からこのような言葉をかけてもらっても嬉しいです。でも、なんか違うんです。それは自分に満足していないからだと思います。

 

「この程度で本当にすみません。ほかの先生だったらもっといい授業ができたかもしれません。子どもたちがもっとイキイキしていたかもしれません。クラスが楽しかったかもしれません」

 

本当に満足しているかもしれない子どもたち、保護者の方に対して、「この程度」なんて言ってはいけないと思います。

 

でも私は、まだできると思うんです。

それは私自身の問題だからです。

私自身が変われば、もっと変わるはず。

『学び合い』はそういうものだからすごく、すごく感じます。

 

「先生、なんか語りがよくなったよね」

「先生、子どもたちへの接し方が柔らかくなりましたよね」

「笑顔が増えたね」

 

言われるんなら、こんなことを言われたいです。そう、私は子どもたちのために『学び合い』をしていると同時に、自分自身の自己実現のために『学び合い』をしているんだと思います。もやっとした自分の理想のイメージの自己実現。なんともまあ、あいまいなものですが…。

 

そんなわけで、来週も頑張ろうと、どこからかやる気がわいてくるのは、自分のよさだろうと、自分をほめてみて今日のブログを終えたいと思います。

 

 

今、私にできること

校内で1つ立場を任されています。

 

影響力があるかといえば、そんなにありません。が、何か少しでもできることがあれば、と思って簡単な資料を準備して、部会で話をしています。

 

今日は発達障害に関わる資料を紹介しました。

少し私のクラスや、過去のクラスのことを話しました。後輩に話をふりました。

 

何か少しでも感じてもらえたらいいなと思います。ほんとに微々たることなんですが、何かしら変わってほしい。変えたい。

 

分かるということ

「分かるということ」について、そのうち文章にまとめたいと思っています。

今年度一番の発見だからです。いくつかパーツを書いて、まとめていきたいです。

 

以下、一年生に『学び合い』を教えてきて感じたことをいくつか。

その1

『学び合い』の課題でわかりやすいのが「~できる」「~解ける」だと考えられる。

 たとえば、「①~⑥の問題が「できる」(「とける」)」

としたら、一年生でもゴールを理解できる。

 

ただし、一年生の初期の段階では、ゴールしたかどうかは、

教師が評価した方が効率がいい。

準備をした答えを見て「できる」「解ける」が達成できるかといえば

2割くらいはできると思うけど、残り8割はすぐにはできない。

「できた」という状態がそもそも認知できていないので、

〇つけをさせても、いい加減になり、間違いを〇することも十分ありえる。

そしてその間違いを2割の子たちが、訂正できるようになるのにも、

かなりの時間を要する。

 

そこを待てるのであれば、教師が評価する必要はないけれど、

間違ったままの解答をそのままにすることは、保護者の理解を得られないので、

教師が介入したほうがいい。

 

実はこれって、1年生に限ったことでは全然ないんですけど、

1年生を担任して『学び合い』をはじめて改めて気づいたこと。

貴重な経験だったと思います。

おそらく、何年生であっても、「分かる」「できる」集団になるには、

一定の時間を要するので、そこを教師がどう振る舞うかは、意図的であった方が

いいと思います。

 

公開日

今日は『学び合い』公開日。

「明日はおうちの人が来るかもしれないから、みんなで頑張ろうね!」と昨日言ったからか、親に「来て!」と伝えた子がいたらしく、初めて来る方がいました。

 

今日は「たし算の計算の仕方を全員が書いて言えるようになる」という課題。

計算の仕方自体は、もう4回ほど練習してきたので、スムーズにいくかと思いきや、

ひっかかってしまう子多数。

 

「ああー、『学び合い』だから気づけるよなあ」と改めて思います。

分かっているようで、分かっていない。

何が分かったなのか、分からない。

一年生を担任して何度も経験してきたことです。

しつこいくらい、同じことを練習し続けることが大事なのかなあと

思っています。

 

さて、今日の『学び合い』は、保護者が来るので、

子どもたちのやる気がいつもより高かったのか、

私の語りを素直に受け入れてくれたのか、子どもたちが活発でした。

 

終わった後に、ふらふらしてしまうようなことはありません。

特に成長を感じたのは、間違いに気づいて、やり直しをしていること。

説明をしている時に間違いに気づけることです。

 

今までは、適当に丸付けをしたり、適当に評価していることが多かったですが、

今回子どもたちの様子を見ていて、「あれ?それちがうよ」という声が聞こえてきました。「おお~ちゃんと、間違いに気づけるってことは、本当に分かろうとしていることだね」と声をかけました。

 

最後の5分くらいで、間違いに気づいた子がいて、一気に輪ができました。

最後の子に集まって輪になるのは、『学び合い』あるあるなんですが、

私のクラスではなかなかそういう状態を見かけることは、今までありませんでした。

「全員達成」を意識できる子が出てきたからなのかなあと様子を見ていて感じました。

 

保護者の方ともお話ができ、よりよい公開日になったと思います。

低学年は特に保護者の方が学校の様子を知りたいと思っている方が多いので、

この公開という取り組みをしてよかったなと思います。

 

仕切り直し

今日読んだ発達障害に関する本に、

発達障害の児童の低学年時における弊害は、叱責による情緒障害」

とありました。

 

なかなか落ち着けない子に対して、

教師は、周りの子はどのように関わればいいのか。

今、子どもたちは「一人も見捨てない」を守って、

落ち着けない子にもかかわってくれています。

 

子ども同士で時々注意をするときもありますが、それは単に

教師の変わりに注意しているだけなのでは、と思いました。

「見捨てない」と「注意は逆効果」

 

いや、実はこの二つは矛盾していないのかも。

「見捨てない」≠「注意」というわけではない。

 

「見捨てない」=落ち着けない子に、どうしたら関わればいいか考える

と考えるべきなのでは。

ああ、明日から仕切り直しだな、これは。

 

あれ?

 

毎日毎日、ずっと周りの子どもたちが関わっていたから

 

少しずつ、話す力も身についてきたんだと思います。

 

やっぱり『学び合い』なんだろうなあ。

 

他の人はそう思わないんだろうけど。