おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

小学校の先生のブログ→引っ越しました→https://note.com/onisensei024

何かを成すには、一歩ずつかな。

「一日で大きな鯨を食べることはできないけど、今日から少しずつならいつか食べる終わることができる」そんな言葉を聞きました。

 

自分が今、続けてきているのはもしかしたら、このブログだけかもしれませんが、

それは毎日欠かさず続けてきたからこそ、です。

 

しかし、ブログを書く時間が結構あいまいでいました。

仕事からかえってから、眠い状態で書こうとしてもやる気が起きない。

だらだら書いても納得いく文章にならない。

 

うまく、それが毎日の日課の一つにはまるといいよなあとおもっていました。

そこで、このブログを朝、早めに起きて書こうと思います。明日から。

しかも15分で。長くなると続きません。

 

このように考えると、一日の中で15分刻みでいろいろしていけば、

続けられるのではないかと思いました。

 

思いたったが吉日でしたっけ。

自分がやりたいなと思うことを、いくつかピックアップして

それを毎日行っていこうと思います。

 

例えば、〇読書

    〇筋トレ

    〇Audible

    〇仕事のリフレクション

    〇英語

 

 

今まで避け続けてきたインスタグラムを使って、毎日できたことと、できなかったことをアップしていこう。(もしかしたらツイッターに変わるかもしれない)

 

いやほんと、自分は集中力が長いこと続かない、と受験生時代によく思っていたので、

逆にそれを生かして15分刻みでやって、続けていけばいいのではないかと思いました。やると決めたら、続けてみる。習慣になるまで。

 

よーし!

一人も見捨てない に自信がなくなって

一人も見捨てない

 

『学び合い』の理念です。

先日ある方から「捨てる」「ない」というネガティブワードが2つ並んでいるという話を聞き、なるほどなと思いました。また、一人も見捨てないは「劇薬」だということも聞きました。 このような指摘になるほどと思うのは、「一人も見捨てない」という言葉に慣れすぎてしまっていたのかもしれません。

 

確かに、「一人も見捨てない」は子どもたちに「誰かを見捨てているぞ」ということを毎回伝えているわけです。

「誰かを見捨てると、一人、二人・・・次に見捨てられるのは自分かもしれない」という語りは、「一人も見捨てないは得」ということを伝えるためですが、ある意味脅迫なのかもしれません。

 

私自身は、そんなに子どもたちを追い詰めようとも思いませんし、「見捨てていること」を見つけて「見捨てるなー!」ともあまり言いません。(言ったこともあります...)「一人も見捨てない」をひとつの「生き方」として提案し、「こんな生き方のほうがいいんじゃない?」という感じで伝えることが多いです。例え話も、「お年寄りが困っている時に、声をかけ合う社会の方がいいよね。」「自分が病気の時に声をかけてもらえるほうがいいよね」みたいな言い方をします。

 

たいてい、道徳の教科書にのっていることや、学校で教える道徳的なことって「(ゆるい)一人も見捨てない」場合が多いと思っています。だから、あえて「一人も見捨てない」と明言しなくても、教師の目指す理念として子どもたちに伝わるのではないかとも思います。

 

ただ、そうだとしてもやはり「一人も見捨てない」と明言した方がいいのではないかと私は思うんです。

はっきりと「一人も見捨てないクラスにしたいんだよね」と語った方がいいのではと思います。

 

お叱り覚悟で書きます。

一度「一人も見捨てない」という生き方を知り、子どもたちの成長やいろんな子が救われる出来事を経験した上で、思います。今の学校の文化の中で、様々な特性を持った子、集団に馴染めない子、勉強がわからない子...いろんな子が苦しんでいて、救われないままになっていることを。しかし「一人も見捨てない」という願いは、そのような子たちを救う可能性があります。また、担任としての務めが終わったあとに、同じ学年や同じ学校に進級進学する同級生たちが「一人も見捨てない」という生き方を忘れないでくれたら、苦しむ可能性が下がると思います。

 

「生き方」である以上、押し付けるものではないでしょう。

でもこの生き方は、多くの人を救うと思うし、何より自分を救うことになる。

そんなことを意識してこれからも語りたいと思います。

 

だれか、これについて話せないかなあ。

 

 

 

3学期の実践記録その1

単元『学び合い』を通した「学びの個別化」に挑戦。

事前に準備した15枚のプリントを子どもたちは、プリントを自分でとって、自分のペースで学習を進めていきます。単元『学び合い』とあまり変わりはないんですが、単元の中でいくつか設定した目標ごとに私のチェックが入るという仕組みが少し違うと思います。

 

削除しました。

距離は近めに

先日お会いしたF先生が、

「語りは距離が近い方がいい」ということを

おっしゃっていたので、実際に3学期から子どもたちに話をするときは、私の近くに呼んで話をするようにしました。

 

今まで、読み聞かせをする時は、近くに呼ぶことはあったんですが、授業の時に呼ぶのは初めてです。

 

やってみると、思いのほかびっくり。

とっても話しやすい。

子どもたちに自然に語りかけることができるし、反応も分かりやすい。

近いからか子どもたちもよく聞いてくれる気がする。

 

国語の教科書の学習の導入。

道徳の教材読み聞かせ。

算数の学習の仕方。

ことわざカードの話。

 

どれも近くで話をしました。

とてもいい。

なんで今までしなかったんだろうってくらい。

 

ちょっとしたことなのに、全然気がつかなかった。いやあ、人から学ぶことってあるんだなあと思いました。

hahaha

今日から3学期。

子どもたちは、元気いっぱい登校してくれました。

「みんなに久しぶりに会えてうれしいよ!」と声をかけました。

 

教室に笑いがあるっていいですね。

3学期もいいスタートがきれたのではないかと思います。

成人式

成人式の特集をテレビで見ました。

よく、暴走する成人たちをピックアップして

「最近の若いもんは」みたいな趣旨の報道がよくあるけど、今日みた特集は、どちらかというと希望に満ちた若者の言葉をたくさん発信していたので好感が持てました。

 

思い返せば、自分の20歳の頃なんて、たいした希望も持たずにフラフラしてたので、今の若者に偉そうなこと何にも言えません。

 

私が相手にしてるのは、もっともっと歳は下だけど、20歳になった時のことも少し意識して育てていけたらいいなと思いました。

 

さあ、明日からは3学期です。

 

 

 

 

訪問

昨日はこのブログを書いているF先生にお会いしました。このブログからは、様々なヒントや、刺激を与えてもらってます。

 

http://manabitudukeru.seesaa.net/article/456029059.html

 

このブログを知って、F先生のことは、ずっと前から関心を寄せていたんですが、直接会ったこともないのに、インターネット上で繋がってもなあと思っていました。しかし今回お会いするチャンスがありそうだったので、思い切って声をかけてみました。幸い、快くOKして下さり、なんと教室でお話を聞かせて頂けることになりました。

 

 

この訪問に合わせてF先生のブログを1年間分ほど読み、自分なりにまとめをおこなっていました。記事を読んだだけでも、おそらく自分の周りにはいないような実践をしている方であり、教育についてものすごく考え続けている方だということは、わかるんですが、はじめてあったときにどんなことを聞いていいのか、どんな考えをお持ちなのか分からないと、話にならないし、そもそも失礼だろうなと思ったからです。

 

ブログのまとめの作業をしていると、その内容の濃さに圧倒されて、ただただ驚くばかりでした。なおかつ、自分が今まで曖昧にしてきたことや、「その通りだ」と思うことがたくさん書かれていてよりお話を聞いてみたいという想いがつのりました。

 

はじめまして

予定よりも早く到着した私たちを歓迎して下さり、教室へ。普通だったら、簡単に自己紹介をしたりとか当たり障りのないような話を聞くことが多いとは思うんですけど、出会って5分ほどで、F先生がどんな子どもたちを育てていきたいか、そのために教師はどうあるべきか、語ってもらいました。

 

引用したブログの記事も書いているように、F先生は私よりも2年ほど前に『』に出会い、実践をはじめていたそうです。そのなかで様々な迷いや、悩み、そしてどんな子どもたちを育てていくか、考え続けていたそうです。

F先生は優しい口調で語りました。「自立した子どもを育てたいよね。いつでもどこでも、誰とでもでも生きていける子ども。それって学び続けることができる子どもなんじゃないか」とおっしゃっていました。 

 

「学び続ける子ども」を育てるためにどうするのか。

『学び合い』ではよくわかっていないのに「わかった」ことにしている子って結構いると思います。それは、わかってないことがわかっていないのか、わかったふりをしているのか、様々だと思いますが、そんな子たちがちゃんとわかっているようにするためにどうするか。F先生は「書く」ことで可視化し、分かっているか明らかにすることを目指したそうです。確かに、F先生のクラスの子の学習プリントを見せてもらったら、子どもたちはものすごい量を書いているし、それがちゃんと足跡として残っていました。

 

話が少し変わりますが、子どもたちが「学び続ける」ために必要なものってなにかというと、「目的、仲間、成長の実感」と「失敗していいこと」とおっしゃっていました。この「書く」による可視化は、子どもたちに「成長の実感」を持つことができると思いましたし、何よりF先生が「伸びているね」「かしこくなっているね」という声かけを行っているそうです。そんな声かけを行うためにも、やはり見てわかるものが必要でしょうね。

 

子どもたちに書かせることは多くの学校、学級、授業で行われているとは思いますが、ここまでしっかりとした意図があっての「書く」のお話ははじめて聞きました。

 結局根底にあるのは「学び続ける子ども」という理想があるからではないかと思います。

 

書く時間の確保のために「カリキュラムマネジメント」

カリキュラムマネジメントの話は私もまだ全然分かっていないので、このブログで書くのはやめておきますが、国語の教科書で学んだことを、社会の学習にそのまま生かし、社会の学習では単元の終わりに新聞が完成しているそうです。実際に見せてもらった社会の新聞もすごい質で、驚きました。

 

『学び合い』の持続モデル

F先生は、『学び合い』のイノベーターの方々が、うまくいかなかったり、どんどん離れていったり、姿を見てきたそうです。『学び合い』を知る方としては初めてきくような話もありました。『学び合い』の「さあどうぞ」を言うのが一般の方ではなく、教師である必要なのは何か?確かにその通りだと思います。つまり、「さあどうぞ」の前には、子どもたちが「学びたい」と思わせることが必要ですし、子どもたちが「どう育ってほしい」と願う「人の在り方」が必要だということだと思います。

 

F先生は、「学び続ける子ども」を育てるために、常に試行錯誤し、進んでいっているんだと思います。時折子どもへの関わり方を話していましたが、たったそれだけでも「人の在り方」が伺えました。子どもたちに伝わる言葉、子どもたちに伝える言葉、子どもたちに願っていること、そのためにどんな勉強をすべきか。常に考え続けてきて、今があるように感じました。『学び合い』の持続モデルはここにあるのではないかと思います。

 

中途半端に子どもたちに「学ばせている風」でうまやくいかない。

「全員達成」だけでもうまくいかない。

私も薄々感じていました。そしてその答えがここにあるような気がしてやってきました。それは間違いではなかったと思います。

 

自分はこれからどうあるべきか。

F先生のやり方を真似するだけではうまくいかないと思います。

結局自分がどんな子どもを育てたいのか。

それは、自分の主観ではなく、子どもにも保護者にも、周りの教師にも納得してもらえるものでなくてはいけない。今すぐにそれを決めて、動くのではなく、子どもたちの姿からそれを見出していくのもいいとは思いますが、「学び続ける子ども」というのは私にとってとてもよい目標になりそうです。

 

ああ、子どもたちの様子を見てみたいし、もっと話を聞いてみたい。

でもそれ以上に自分自身の考えをもっと深めないといけない。

だって「はいどうぞ」というのは私ですから。

 

 

討論について

苫野一徳著

『教育の力』の中に、「討論」について書かれていました。

 

わたしたちには、お互いが納得のいく考えを見出だしていかなければならない時は、しばしばあるのものです。

何かを協力して決めていくとき、あるいはひどい争いを避けるために、何らかの「共通了解」を見いだす必要がるのです。

しかし、今の学校教育には、そうした「共通了解」を得るための「考え方」「議論の仕方」を学ぶ機会がほとんどありません。議論といえば、勝ち負けを決めるようなディベートか、さもなければ、さんざん議論を行ったあげく、「答えは出ないけど、いろいろ話し合えてよかったね」で済ませてしまうような、あまり建設的とはいえないようなものが大半だと思います。

 

確かに、学校現場で「共通了解」を得るための考え方や、議論の仕方を学ぶ機会はあまりないと思います。

6年生の国語の教科書に「学級討論会しよう」という教材がありますが、その討論会は、より説得力のある意見を出すことを目ざします。そのことについて以下のように書いています。

 

ある論点について、肯定側と否定側に分かれて議論をし、そのどちらかが説得的であったか決着をつけるこの

(競技)ディベートの形式は「はじめに」で述べた「問い方のマジック」にかかりやすい思考のくせを、子どもたちに身に付つけさせてしまう可能性があるのです。

※「問い方のマジック」 「あちらとこちら、どちらが正しいか?」と問われると、わたしたちは思わず「どちらが正しいのではないか」と思ってしまう傾向があるのです。

 

確かにその通りだなと思いました。昨年私は、『学び合い』を発展させてより高い段階にするために、

ディベートを取り入れたりしました。それはそれでとても盛り上がったのですが、この本で指摘していることを思い出しました。ケンカのようになってしまう議論、議論が終わっても不完全燃焼になってしまう議論。熱の入れ方に差がある子どもたち。そのときは、「これもありか」と思っていたけど、どんな子どもたちを育てたいのか。学校は何を学ぶべきか、ということが自分の中でまだ曖昧であり、「行き詰まった学び合いをよりよくしたい」という理由から行ったために、そのような違和感を感じたんだと今ごろになって気づきました。

 

そうだ、お互いを納得させるような議論よりも、お互いの共通了解を得るような議論ができるようになる方が、

子どもたちの人間関係も良好になるし、学校がそのようなことを学ぶ場だと考えたら、どのような話し合いをすればいいか見えてくるはず。「なんかよさそうだから」で取り入れることの危険性ですね。

 

『教育の力』何度読んでも、発見があるし、繰り返し読みたい本ですね。

他の著書にも挑戦したい。

 

札幌へ

学生時代に過ごした札幌へ向かっています。

観光なんて全くせずに、ひたすら仲間に会うためだけの旅行です。楽しみです。

 

仲間に会う合間に、ある先生とお会いします。

初めてお会いするのですが、以前からブログなどを読んで関心を持っていた方です。

 

私のために学校でお話をしてくださるという、待遇っぷり。失礼のないよう、しっかり学ばさせてもらいたいです。そしてそれを3学期に生かしたい!

 

楽しみです。