【自学】自分で決める学習から自分で考える学習へ
あと1週間となりました。
先日から、「自主学習」に取り組んでいます。※以下「自学」
その際にこの本を参考にしています。
子どもの力を引き出す自主学習ノート 実践編 (ナツメ社教育書ブックス) https://www.amazon.co.jp/dp/4816354077/ref=cm_sw_r_cp_tai_650KCbQ3T6N7K
私はこの「自主学習」を宿題に活用しました。
今までは、学校の約束に従って、「漢字・算数・音読」の宿題を出していました。
ただ、一人ひとり課題が違うのに、同じ量、同じ部分を出すのは効率が悪いと思い、
それぞれの課題に合わせて、「自分で決める」ようにしていました。
例えば、漢字のプリントをするとか、ノートに書くとか、何ページするとかです。
ただ、この「自分で決める」宿題に至るのも結構時間がかかりました。
「これをする」って決まっていた方が、簡単ですからね。
話はそれますが、低学年でもできましたよ。「自分で決める」宿題。
「低学年だから」とか「この子達は〜」みたいな言い訳はあまり関係ないだろうなと思います。
さて、学年末。
そろそろ「自分で決める」から「自分で考える」宿題に移行したいなと思っていました。
というのも、今までしていた漢字や算数の宿題が、もう楽勝すぎという子が現れ、マンネリ化しているなと感じていたからです。ただ、「自分で考える」宿題をすぐ導入するのには、慎重にしたいと思っていました。
おそらく「自由にしていいよ」と言ってすぐにできる子もいると思います。
自分の好きなことをたくさんまとめてくる子もいるでしょう。
それはそれでいいんですが、「好き勝手にする」ことが「自分で考える」宿題とは私は思いません。
私は子どもたちに、「自分が学ぶべきことを考えて、決めて、学ぶことができる」ようになってほしいと思っています。(※なんか良さそうに書いていますが、多く大人がやっていることだと思うので、珍しいことではありません。)
だから、「計算しなくていいや」とか「漢字しなくていいや」の「自学」ではなくて、
「自分は漢字も少し練習しないといけないな。残りは、自分の好きな勉強をしよう」
「今日テストして間違った問題をもう一回してみよう。何が間違っていたか、文でまとめよう」のように
なってほしいと思っています。
そのため、「今、自分は何を学ぶべきか」を考えさせることを2週間ほどかけて行い、
先行して何人かの子に取り組んでもらいました。思った通り、すぐに思い思いの学習をおこなっていました。
そして、それを子どもたちにシェアし、「こんな風にすればいいんだ」とわかってもらうようにしました。
このように十分に準備をし、保護者にもお便りを書いてスタートしました。
結果・・・。
いい。
とってもいいです。
子どもたちがノートをみせあったり、私自慢してきたりしています。
いい感じです。
これは来年度以降もできそうだ。
ひとまず、春休みは宿題がないので、
「自学やってきていいよ」と言っておきたいと思います。
どれだけの子がしてくるかわからないけど、一つ何かを続ける機会にしたいと思います。
春の訪れ
今日、生活科の時間に「春見つけ」をしました。中庭を歩いていると、桜が咲いていることに気づきました。(写真は勤務時間後に撮りました)
その後、子どもたちと運動場を歩いていると、端の方に、たんぽぽが咲いていました。
子どもたち、とても嬉しそうでした。
季節を感じる学習っていいなあ、ほかの学年でもこれくらいの余裕があったらいいのに。
もうすぐ1年間のおわり。
そして1年間のはじまり。
あれから3年
友人が亡くなって3年になりました。
とても身近な人の死を知ったとき、それまでは「死」というものが、たくさんニュースなどで触れてあるのにもかかわらず、全然実感がなかったことに気づきました。
しかし、友人が亡くなって、「死」というものを考えるようになりました。
その友人に会う機会こそ減ったものの、定期的に会っていたので、生きているのは当たり前、またいつか会えるくらいに思ってました。
だから今でもその感覚は変わりません。
もう二度と会えないはずなのに、また会えそうなきがします。不思議な感覚です。
卒業式
以前担任した子たちの卒業式。
教え子が卒業する姿を目の前にするって、こんな気持ちになるんだなあ、と実感。この気持ち、今まで私は考えてなかったなあ。自分が6年担任の時。もしかしたら、私の発言で嫌な思いをした人いたかも。申し訳ない。
自分が真心こめて育てた子たち。
たくさん助けてもらった子たち。
ほかの先生の所で育って、卒業していく。
一年限りの関わりだから、こんなことは当たり前なんだけど、なんか寂しい。
そうか、今までは担任した子の卒業を見届けることはほとんどなかった。だから今更になって知ったのか。この気持ち。
もう一度担任をすることが、正解ではない。
だからといって願い続けることもなんかしっくりこない。だから、自分ができることをする。
でも単なる自己満足ではないのか、本当はどんな気持ちなのか。
そんな思いがグルグル巡る。
いやでも、いつかは離れなきゃいけないんだよな。なら、今できることは、ただ一つ。
卒業おめでとう。
あの時はありがとう。
君達との1年間がこんなにも素敵な思い出になるとは、その時気づかなかったよ。ごめんな。
これからも応援しているよ。
子どもに学ぶ
「子どもに学ぶ」
そういう言葉を今までに聞いたことが何度もありました。
実は内心「綺麗事」と思っていました。
「教える身の自分がいったい子どもから何を学ぶのか?」
そんな気持ちがどこかにあったんだと思います。
教師になった当初は「子どもから学ぶ」ということよりも、
「子どもにどう教えるか」ばかり考えていました。
でも今になって少しずつ思います。
実ははじめから私は「子どもに学ぶ」をしていたということを。
授業をどうしようか考える時に真っ先に思うのが「子どもたちはこれでわかるのか」だと思います。
これはまさに「子どもに学ぶ」をしているからこそ、試行錯誤していたんだと思います。
ただ、当時はそんなことを考えもしなかったですがね・・・
まもなく低学年担任の2年間が終わります。
自分の器の小ささ
自分が目指したい教師像とのギャップ
そして多様な子どもたち・・・
そういったことに日々悩み考えつづけてきました。
この2年間で、本当に微々たることですが、私自身で変わったなと思うことがあります。それは
「まあいいっか、この子らしくいれば」と思えるようになったこと。
これは「子どもに学ぶ」ということを2年間し続けたからこそ、思えるようになったことだと思います。
それまではどんなに意識しても、直そうとしても「指導しなければ」と思ったり、イライラしていました。
今では笑って「ははは、わかんなかったかー」「あれーどうしたの?」と言えます。
こんなこと、多くの先生なら当たり前にしていることなんでしょうけど、
私にはとてつもない成長だと思います。そして少しですが、自信がつきました。
「少し先生らしくなれたかな・・・」って。
もしかしたら、私が教師を続けているのって、自分自身を変えたいと思っているからなのかな、と思います。
子どもと触れ合い、子どもに合わせて自分が変わっていく、そういうことに価値を見出しているのかもしれません。
いったいほかの方々は何を考えて、教師を続けているんだろう。
ちょっと話してみたいなと思いました。
明日はホワイト
明日はホワイトデー。
職員室のみなさんに、お礼をしなきゃ。
この風習のお陰で、お菓子の話が何日間かできたのはよかったかな。
成長
今日は、子どもたちの成長を強く、強く実感した日でした。
もうなんか、私の存在はいらなくなったな、と思いました。
子どもたちが話しあっている姿を見て強く思いました。
低学年だからこそできたのかもしれない。
この子達だからこそできたのかもしれない。
持ち上がり学年だからこそできたのかもしれない。
でも、目の前の子達は間違いなく、成長したと思います。
私が「こうしたいんだ」というクラスではなくて、
子どもたちが「こうありたいんだ」というクラスになったと思います。
そして、「自分、少し変われたかも」という実感もあります。
子どもたちに対する関わり方
子どもたちへの言葉かけの仕方
子どもたちへの見守り方
今までだったら意識してもできなかったことや
意識してなかったら全然だめってことだらけだったけど、
なんかちょっと変われた気がします。
2年前、1年前、半年前、1ヶ月前・・・
その時の自分とは違うように思います。
今までしっくりこなかったのですが、
「子どもから学ぶ」ということが少しわかった気がします。
去年の今頃は、「みんなごめんね」と思っていたけど、
今年は「みんなありがとうね」と言えそうです。
先日、畑に植えていた大根をぬきました。子どもたち、大盛り上がり。
立派な大根を見て「え、学校の畑でもこんなに太くなるの?」と驚きました。
雑草ぬきとか水やりとか、割りと大雑把な世話しかしていなかったのに、こんなに大きく成長するなんて。
大根の成長する力を感じました。
大根を例えにするのは、的外れかもしれませんが、
子どもたち、私があれこれと手をかけなくても、ぐんぐん成長していきました。
仲間たちと共に話し合う姿、太い大根のように、たくましさを感じます。
私の役目もあと少しで終わりです。
3.11
子どもたちに写真を見せながら語りました。
お便りも書きました。
黙祷しました。
私にできることはこの程度です。
ー偉そうなこという前に、動けー
はい、分かっています。色々言い訳つけて、何も動いていないんです。
だからすみません。今の私にできることしました。
いつかはこの目で東北の地を見てきて、子どもたちに語りたい、そう思っています。
zoom会議②
ある先生が以下のようなことを言っていました。
教室または、その先に信じ合う世界をつくること人の言っていることを聞いてもいいと思えること
教師の隠し事はばれてしまう。
だから聞かれたことを正直に答えるいつも本当のことを言っていると、子どもは自分たちのことを信じてくれていることに気づく。
なるほど、そうやって教室に信用できる雰囲気を作っていくのか。そしてそれが、学び合う関係になっていく。自分はどうだろうか。
本当に子どもたちのことを「信じて」いるのだろうか。いたのだろうか。正直自信を持って言えないところがある。私は子どもたちを学び合わせていただけで、本当に子どもたちを信じて『学び合い』をしていたのだろうか。
初期の頃に感じること。
「信じなくちゃいけない」というプレッシャー。
この語りの仕方でいいの?
見取りでいいの?
そんなことを考える。
『学び合い』をやりたがっている、とも言える。でも実は、実践していくうちに、自分の信じるものがあって、自分の中から見えてくるそれは自分が辿っていかないとわからない。
なるほど、たしかにはじめはこれでいいのか、これが『学び合い』と言えるのか。そんなことを考えていました。いつ頃から自信を持てるようになったのだろうか。
ただ、その自信も時折ゆらぎます。
本当にこれでいいのだろうか。
以下西川先生の過去の投稿から引用。
分かりやすい判断基準は以下の通りです。
1) 一人も見捨てるなと子どもに求めているか?
これは実践が進むと「一人も見捨てないのは得だ」となります。そして、私の本だったら「学歴の経済学」、「アクティブ・ラーニング入門」、「サバイバル・アクティブ・ラーニング入門」、「2020年激変する大学受験!」で書いているような今後の社会のことを語ります。
2) 教科の内容を相対的に見られます
『学び合い』は面白い授業、分かりやすい授業を目指しているのではなく、子どもの幸せを目指しています。だから、その教科の蘊奥・奥義を教えることを目指しているのではありません。「その教科の蘊奥・奥義を教えること」を全面否定はしませんが、一人残らず全員の幸せを願うならば、「その教科の蘊奥・奥義を教えること」を持ち出しません。
3) 子どもに任せる時間が長い
子どもに任せる時間は、子どもをどれだけ信頼しているかと比例します。これは自分の限界を理解しなければなりません。そのためには、子どもには多様性があり、全員がその子にあった指導を求めていることを理解しなければなりません。それが理解出来れば自分には無理だと理解出来ます。「でも、子どもに出来るだろうか?」という不安は、『学び合い』は2割の学力的にも高い子どもを納得させ、その子達が6割の子どもを動かし、8割の子どもが残りの2割の子どもを動かすという構造を理解しなければなりません。ただし、校長からの命令で出来ない場合は除外されます。その状況で出来る範囲のことをやればいいのです。
以上は、願い、学校観、子ども観に対応するものです。
引用終わり。
確かにこの基準はクリアしてるんですよね。
でもその「一人も見捨てない」が何なのか。
「子どもに任せる」とは何なのか。
この辺りが深まっているかどうかわからないんです。なんてったって考え方だから、実体がない。だから、時々「これでいいのか?」と迷うし、悩む。これこそ、『学び合い』なのかなとおもってます。
本当の実践者は、いつも道半ば。
これが『学び合い』です!なんて言わない。
おそらく。