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幸せになる勇気 備忘録

 

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 「嫌われる勇気」よりも、教育について書かれている気がします。

何にせよ、アドラー心理学は『学び合い』に通ずるところが多いと思います。

 

【備忘録】

人は皆自由を求め力で不自由な状態からの自立を求めている。 

教育とは介入ではなく、自立に向けた援助なのです。

知とは人間が人間として幸福に生きるための知も含みます。共同体の中でどのように生きるべきなのか。他社とどのように関われば良いのか。どうすればその共同体の中に自分の居場所を見いだすことができるのか。

この人間知は、書物によって得られる知識ではなく、他者に交わる対人関係の実践から学んでいくしかないものです。

尊敬。役割として教える側に立っている人間が、教えられる側に立つ人間のことを敬う。

尊敬とは人間の姿をありのままに見てその人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである


子供たちは変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。あなたの尊敬によって、生徒たち一人一人が自分が自分であることを受け入れ、自立に向けた勇気を取り戻すことになる。これは間違いないでしょう。取り戻した勇気を使うか使わないかは、生徒たち次第です。


この世界には、いかなる権力車であろうと強要しえないものが、2つだけあります。尊敬と愛です。

子供たちはあなたではなく、権力に服従しているだけです。あなたのことを理解しようとは、微塵も思っていません。耳を塞いで目をつぶり、怒りの嵐が過ぎ去るのを待っているだけです。


人間は、過去の原因につき動かされる存在ではなく、現在の目的に沿って生きている。

われわれは過去の出来事によって決定される存在ではなく、その出来事に対してどのような意味を与えるかによって、自らの生を決定している。


今を肯定するために、不幸だった過去をも肯定する。例えばあの時厳しく叱って下さって、どうもありがとうございましたと感謝の言葉を飲める人。彼らは今の自分を積極的に肯定しようとしているのです。結果過去のすべてが良い思い出になる。そこで語られた感謝の言葉だけを持って、強権的な教育を認めるわけにはいきません。


人間は誰もが私と言う物語の編纂者であり、その過去は今の私の正当性を証明すべく、自由自在に書きかえられていくのです。今の目的に反する出来事は消去するのです。

三角柱に書かれているもの。


悪いあの人

かわいそうな私

これからどうするか


われわれは語り合うべきは、まさにこの一見、これからどうするかなのです。悪いあの人などいらない。かわいそうな私も必要ない。あなたがどんなに大きい声でそれを訴えても、私が聞き流すだけでしょう。

 冷淡さゆゆえに聞き流すのではありません。

そこに語り合うべきことが存在しないから、聞き流すのです。確かに悪いあの人の話を聞き、かわいそうな私の話を聞き、私がそれは辛かったねとかあなたは何も悪くないよと同調すれば、一時の癒しは得られるでしょう。カウンセリングを受けて良かった、この人に相談してよかった、と言う満足感もあるかもしれません。


でもそれからの毎日がどう変わるのか、また気がついたら癒しを求めたくなるのではないか、結局それは依存では無いのかだからこれからどうするかを語り合うのです。

教室は民主主義国家である。

ルールは民主的な手続きによって作られたものではなければならない。

あなたの学級を、1つの民主主義国家だと考えるのです。

学級と言う国家の主権者は教師ではなく、生徒たちである。

学級は、教師が統治する独裁国家ではない。教室が荒れているのは教師の資質ではない。ただそこが腐敗した独裁国家だからこそ荒れているのです。独裁者の率いる組織は、腐敗を免れません。

我々大人たちに必要なのは叱責ではなく、教えることです。ただ知らないのです。命の価値を、そして他者の痛みを。


幼稚園の子供ならともかく、小学生、さらには中学生にもなれば、みんなわかって問題行動をやっています。何が禁止されていて、何が怖朗読とされているのか当の昔に知っている。彼らはいわば確信犯として問題行動を起こしているのです。


問題行動の第一段階、それは賞賛の欲求です。

彼らの目的は、あくまでも褒めてもらうことであり、さらに言えば共同体の中で特権的な地位を得ることなのです。

彼らは褒めてくれる人がいなければ、適切な行動しない。罰を与える人がいなければ不適切な行動を取ると言うライフスタイルを身に付けていくのです。

具体的にはどうすればいいかと言うと尊敬を示すことに意味があります。もっと日ごろのささいな言動に目を向ける。そしてその人の関心事に注目し、共感を寄せていくそれだけです。

問題行動の第二段階は注目喚起です。

人に褒められなくてもいいから、とにかく目立ってやろうと考えます。

いたずらによって注目を得ようとするでしょう。できないことをして振る舞うことで注目を集め、特別な地位を得ようとするわけです。

問題行動の第3段階ここで彼らの目的は権力争いに突入します。

一言で言うなら反抗です。親や教師は、口汚い言葉で罵倒し罵って挑発する。感触を起こして暴れることもありまし、万引きや喫煙に走るなど、平然とルールを破ります。

多くの親や教師たちは、ここで怒りのラケットを手に取り、出席と言うボロ家回します。しかしそれは、挑発に乗り相手と同じコートに立つことでしかありません。彼らは聞きとして次なる犯行のボロ家解してくるでしょう。自分の仕掛けたラリーが始まったのだと。じゃぁどうしろと。すぐさま彼らの行動から退場する。


問題行動の第4段階、復讐。

愛を求めることが叶わないと知った瞬間、人はいってんして憎しみを求めるようになるのです。憎悪と言う感情の中で、私に注目してくれ。そう考えるようになるのです。


ひたすら相手が嫌がることを繰り返すのです。わかりやすいところで言うと、いわゆるストーカー行為は典型的な復讐です。

暴力や暴言がエスカレートするのはもちろんのこと、飛行グループや反社会的勢力に入れないほど不潔になっていたり、周囲が嫌悪感を抱かざるを得ない位グロテスクな趣味に耽溺するなど、復讐の手段は様々です。


こうなったらもう、利害関係のない、全くの第三者に助けを求めるしかない。つまり他の教師や、学校の外にいる人間、例えば我々のような専門家に頼るしかないでしょう。


問題行動の第5段階、それは無能の証明です。

人生に鉄棒し、自分のことを心底嫌いになり、自分には何も解決できないと信じ込むようにある。

自分がいかにものであるか、ありとあらゆる手手を使って証明しようとします。

問題行動の大半は、第3段階の権力争いにとどまっています。そこから先に踏み込ませないためにも、教育者に課せられた役割は大きいのです。


もしも叱ると言う手段が教育上有効であるのなら、せいぜい一の何回かしか会っておけば、問題行動はなくなるはずです。それがどうしていつも叱ることになってしまうのか。どうしていつも怖い顔して、いつも大きな声を出さないといけないのか。不思議に思ったことはありませんか。

叱ると言う手段が教育上何ら有効でないことの、動かの証なのです。

あなたは生徒たちに原因ばかり聴いている。素行いくら掘り下げても、責任放棄と言い訳の言葉しか出てきません。あなたのやるべき事は、彼らの目的に注目し、彼らとともにこれからどうするかを考えることなのです。


暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。安直なコミニケーション手段なのです。これは道徳的に許されないと言う以前に、人間としてあまりに未熟な行動だと言わざるをえません。

あなたは、生徒たちと言葉でコミニケーションすることをわずらわしく感じ、手っ取り早く屈服させ落として、叱っている。

怒りとは、人と人を引き離す感情である。


われわれは他者の指示を仰いで生きていた方が、楽なのです。

おや、そして教育者は、どうしても子供たちに過干渉になり、過保護になる。その結果何事についても他社の指示を仰ぐような、自分では何も決められない子供を育ててしまう。これでは自立ところではない。

子供を支配することで子供たちに冒険を許さず、無難で、怪我をしないような道ばかり歩かせる。可能な限りコントロール下に置く。子供たちを心配して、そうするのではありません。すべては自らの保身の為です。

教育する立場にある人間、そして組織の運営を任されたリーダーは、常に自立と言う目標を掲げておかなければならないのです。


先生のおかげで卒業できましたとか先生のおかげで合格できましたと言わせる教育者は、本当の意味での教育は失敗しています。

幸福の本質は貢献感なのだと。

子供から友達のところに遊びに行ってもいいと聞かれる。この時もちろんいいよと許可を与えたり、宿題をやってから寝条件を付ける親がいます。あるいは遊びに行くこと自体を禁止する親もいるでしょう。これはいずれも子供依存と無責任後に置く行為です。そうではなくそれは自分で決めていいんだよと教えること。自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものだと教えること。それを決めるにあたって必要な材料例えば知識や経験があればそれを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。