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特別支援について

今日のzoomでのこと。

「特別支援」について自分なりに腑に落ちた。

 

「特別支援」って、

その子を、ほかの学習者と同じ土俵(平面)にのせるために、教師なり大人が「支援」すること。

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(絵が適当だけど)この手が「特別支援」

じゃあ、この「土俵」って何よって、いうのが問題。

もしそれが、「小数のかけ算を学ぶ」であるのなら

 

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小数のかけ算をみんなが学習する際に、2年生で習う九九ができないと、学べないから、それを「支援」する。こう考えると、九九を習得していない子への「支援」は「特別支援」これは「うちのクラスは学習が厳しい子がいるから、『学び合い』なんて成立しない」っていう方の意見と通じるところがある。「学習が成立する能力がないと学び合いっこない」ってことだ。

 

しかし、考え方を変えてみて、この土俵を「お互いにコミュニケーションがとれて、学びあえる」という土俵にしてみるとどうだろう。

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小数のかけ算を学んでようが、九九を学んでいようが、「みんなちがってみんなイイ」となる。

課題がそれぞれ違うだけで、「学び合う土俵」にはみんなのっている。そしてその課題は教師なりの大人の「特別支援」なくても、子ども同士の関わりによって「支援」できる。なぜなら「九九ができる」という課題は、九九を理解している子がたくさんいるこの土俵では、十分にのりこえられる課題であろう。(時間はいくぶんかかるかもしれないけれど)

 

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ならば、「お互いにコミュニケーションがとれて、学び合える」という土俵にのらない子をのせようとすること、教師なり大人の「特別支援」。という考え方、これは腑に落ちるところが今までの経験からいっても、とても納得のいく話だった。

 

こう考えると、

「この意味での「特別支援」が必要なことあったっけ?」とも思ってしまう。

 

日本語が通じなくても、ある程度、コミュニケーションがとれたら学び合うし、

いわゆる「基礎学力」が劣っていても、学び合う。

学年がちがっても学び合うし、クラスがちがっても学び合う。

 

考えるとほんとに少ない。「特別支援」したこと。

ここにはかけないけど、「特別支援」したな、と思うこともある。

そしてそれは、※「こうしたらこうなる」という知見も必要だったけれど、対話やその子を見つづけることによって、うまれるものが多かったから「これ」という正解もなかった。その場ですぐに「みんなで学ぶ」土俵にあげられるものもあれば、時間がかかったり、そのきっかけを与えるものもあった。

 

※こうしたらこうなる=発達障害などの支援の仕方などを医学的知見から知っておくこと

 

 

 

いやはや、ものすごくすっきりしたというか、今までずっと曖昧だったものがスカッとした気分。

昨日話した方には「ブレイクスルーしたよね」と言われたけど、当の自分が一番びっくりしている。

やはり対話なんだなあ。本当に。