数十年前の時代を体験する 一人ブックカバーチャレンジ③
私が入学したのは、教員養成課程の大学でした。
その中でも、社会言語教育系という国語や社会の教員を養成するコースに所属していました。
勉強すること自体は苦痛ではなかったのですが、多くの講義の内容が全く面白くない(笑)
ま、大学の講義なんて、そんなもんだってのは入学して数日で分かったのですが、1年次のはじめの半年で、自分が所属するコースが決まるということだったので、真面目に勉強するつもりではいました。
そんな1年次の前期の講義で一番勉強したのが、「近代文学概論」という授業。その当時の私には「面白い」と思えるものでした。その授業の課題図書で、「近代文学」の歴史を築いてきた多くの作家を知ることになります。この先、自分は大学で文学を学べたらいいな、と考えました。
ならば、この課題図書で紹介されている作家の作品は読んでみないと、と思い読んだのが、
この本でした。
いわずと知れた名作ですが、当時の私にはあまりに読みづらい作品で、読み終わるのに1ヶ月くらいかかりました。内容については、他に譲りますが、当時の自分が感じたことは、
数十年前の時代に書かれたものが今の時代でもそのまま読めて、
当時の世界を体験できるってすごい。
でした。それ以降、何冊か近代文学に挑戦しましたが、ほぼ挫折。
文学を本格的に学ぶことの難しさをこの段階でわかっていればよかったのに・・・
結果的に、その後の人生を狂わすことになります。
北国で迷走する19歳 ブックカバーチャレンジ#2
1年間の浪人生活を経て、北海道の大学へ進学することになりました。
縁もゆかりもない環境ではじまった新しい生活にワクワクして臨むものの、玉砕。
ロクに人間関係を築くことも、
自分の気持ちと大学生活に折り合いをつけることもできず
空回り。
思い描いていた学生生活とは異なり、ただただ孤独感だけが募る日々。
長期の休みは本当にやることがない。
ただただ毎日が過ぎていくことに焦りを覚え、したことといえば読書。
近所の本屋でポップになっていた本を手当たり次第に読みました。
その中でも当時の自分にヒットしたのが、この本。
北海道の大学生が、年上の女性に恋をし、駆け落ちをしていく、という物語で、
なんとなく自分の境遇と似ている若者が、すべてを捨てて自分の想いを貫いていく様が、
当時の自分には、とても新鮮に感じました。
あの頃の戻れば、いろんなことができたと思うけど、あの頃に迷走していたことが
今につながっているとも言えます。今、19歳の自分に声をかけるとしたら、なんていうだろうね。
初めての一冊「青の炎」ブックカバーチャレンジ#1
ブックカバーチャレンジ
昨年流行していたのですが、乗り切れませんでした。いつかやってみようと思っていましたが、今度読書会があるとのことなので10日間チャレンジしてみようと思います。
教師は・・・のプロだ
教師は人に何かを伝える、学ばせることのプロだ。
「いやいや、そんなプロだなんてそんな・・・」
と思う学校の先生は多いかもしれない。
もちろん全員ではないが、授業が成立するレベルの力がある方は、
人前でしゃべったり、伝えたり、教えたりするのは、一般の人より上手だ。
このことに気づいたのは、結婚式のスピーチ。
自分が学校の教員であるからというのもあって、学校の校長先生がスピーチを行うことが
結構多かったけど、だいたいどの方も話が上手。相手が普段話す機会が少ない方だとその差は歴然。そりゃそうだ、教師というのは、主に子どもに対して、毎日毎日、子どもがわかるように話をし、説明をしているんだ。経験値が違いすぎる。
先日、とある企業の方が主導する研修を受けたが、とにかく話が長くて情報量が多い。
活動も少しあるけど、正直全然頭を使わない。時間の無駄だったので、別のことを考えながら話を聞いて参加していた。それくらいの余裕があった。
この時、はっきり思った。
学校の先生の中から、授業の上手な方に研修をしてもらえばいい。
いないんじゃなくて、いるのに気づかれていないだけ。
少なくとも、僕が今までセミナーなどで話を聞いてきた方の中で、公立の学校の先生だけど、
プレゼンや話がめちゃ上手、という方はいっぱいいた。
なんたらEducation名乗って、学校の先生の前で話すんなら、それなりのスキルで話さないと、聞いている先生たちには敵わないですよ。それできないなら、早いところ、学校の先生からピックアップしたほうがいい。繰り返すけど、優秀な先生はいっぱいいる。
校内研究授業の泥沼化
小学校一年生の国語の教材に「じどう車くらべ」というものがあります(今もあるのかな?)
この教材を使った国語の校内研究授業を何度か見たことがあったのですが、毎度
泥沼にはまってるな、これ
と感じていました。
校内の研究授業って、先生たちは結構頑張って準備をするわけですよね。
僕なんて「無意味だ」と思うことはやりたくない人間なので、いくら「建前」であってもやりたくない。子どもたちが学んできた「あしあと」を模造紙に丁寧に書いて貼ったり、学習してきたプリントをしっかり目を通してコメントを書いたり、「○○スキル」なるものを用いてみたり・・・意味ないから、やりたくない。
あのさ、この文章、様々な自動車の「しごと」と「つくり」をそれぞれ分けて説明している文章で、それが分かればいいのに、なんでここまでするの?この模造紙いったい何人が見るの?
そんなことを思うわけです。しまいにはクレーン車のおもちゃが登場したり・・・もう国語じゃないじゃんって。
でも、そういう「意味ないなー」「時間かけすぎだー」「国語の授業から離れてらー」
みたいなのを指摘しちゃうと、まあ完全に「痛い人」になっちゃうんですよね。
「なんでこんなに頑張って準備しているのに、批判するの、信じられない!」みたいに。
「いやいや、研究授業ってそういうものでしょ、大事なことは子どもがどう学んでいるのか、この授業で何が身についたのか、じゃないの。先生の頑張りとか関係ないじゃん」って思うのですが、さすがに言えません。
で、協議会で出てくるのは
「この掲示物はー」「この板書はー」「実物はー」
すばらしい!
という称賛。
いや、そうも言いたくなるのは分かります。本当に時間かけて、頑張っているのは分かりますから。そりゃあ労いの言葉もかけたくなりますよ、普通なら。
ただですね、この風習が結局、校内研究授業をどんどん泥沼化させていくわけです。
「頑張り」が大事で、肝心の授業に対する冷静な分析がない。
あっちむいている子は?
全然わかっていない子は?
いつの間にかそういう子たちのことは見えなくなっている。
完全に目的を見失っているわけですね。
こういうことって学校で、先生たちの中でたくさんあります。
で、結局仕事を膨大にしているわけです。
悪意があるわけではないのはわかっていますが、もういいかげんこの負の連鎖を立ちきららないといけないと思うんですよね。
というわけで、我が子の遊んでいたクレーン車でこんなことを思い出したおに先生でした。
矛盾疲れ
100人感染→多い!
100〜300人感染→多い!
300人〜900人感染→多い!
1000人→とんでもない!
なんかもう、こういう「感覚」で発信ばっかりされていて、それによって自治体の動きが変わるからなんだか嫌になってきた。
150万都市の100人って、いったい何%なのよ。
規模でいったらどれくらいなのよ。
それに出会う確率ってどれくらいなのよ。
いや、わかりますよ。
増えているのは。危険だということは。
気をつけてますよ、ずーーーっと。
でも気をつけるべきことって一緒じゃん。ずーーーーっと。
三密を防ぐ。マスクをする。飛沫を飛ばさない。体調に気をつける。
なのに「過去最高」だとか「曜日最高」とか「感染対策強化」とか
毎度毎度、騒いで。
完全に頭が洗脳されているよね。
「自粛疲れ」ってなんなん。
僕はどちらかというと「矛盾疲れ」ですよね。
もっと正確な情報がほしい。正しく行動できる情報がほしい。
いったい何人の感染者が出ると「多い」のか。
もちろん、自分で判断しなければいけないんだけど、
自分の行動が周りに左右される部分が多いもんだから、ほとほと困る。
ワクチンがーーーって言うけど、
子どものワクチンはずっと後なんだから、学校はずっと振り回され続けるわけだ。
「なんとなく多い」に。
感染を防止するのか
今まで通りなのか
はっきりしてくれ。もう歪みはそこまできてるぞ。
みんなこれを読もう。これに当てはまることばっかりだよ、今の日本の社会。
FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣
- 作者:ハンス・ロスリング,オーラ・ロスリング,アンナ・ロスリング・ロンランド
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ホワイトな生活
今の職場で働けることをとても嬉しく思っています。
朝早く来ることも、残業もないし、休憩もきちんととれます。
年休もとれるし、時間に追われることもありません。
仕事と家事と育児が十分に両立できます。
こんなことを周りに話すと、
「楽でいいね」という言葉が聞こえてきそうで、控えていますが、
このような生活が正常なんだよな
と思います。いや、本当に学校で働いていた時は、いろいろ麻痺していました。
労働条件のおかしさにはそれなりに気付いていて、自分なりに効率よく働いたり、年休とったり、余裕を持てるようにしていたけど、「どうしようもないよね」という部分もありました。
それよりも「こんなことをして何の意味があるの」「時間内にできるわけないじゃん」という
理不尽に対して腹立たしいものを感じていたなと思います。
でも、今はそれがない。ありがたい限りです。
もちろん、どんな職場にも難しい部分もあるし、ストレスもあるだろうと思いますが、
今の職場、先輩方が「いい職場をつくろう」という心がけを持ってくださっているので、4月入って1ヶ月たっていないですが、とても気持ちよく過ごすことができています。
むしろ、労働環境の厳しさより、職場の雰囲気の方が僕にとって重要です。多少ハードな労働環境でも、周りの関係がよければ頑張ることができますが、逆は精神的に疲れていきます。
どんな職場も「みんなでよくして行こう」という心がけがあればいろんなことが好転するし、
お互い牽制していたら、どんどん苦しくなっていくんだと思います。
本当に先輩方のおかげです。
そして今の環境で働けることに幸運と思って過ごしていきたいです。
ホワイトな生活最高!
矛盾ばかり
端末の操作に不慣れな子どもが多く、スムーズにオンライン授業を進めるのが難しい
保護者からも「仕事を休めない」「テレワークをしているので面倒を見られない」などの意見が寄せられ
「新年度になったばかりで、児童がまだ端末に慣れていない。貸し出すルーターも足りない」
学校も、保護者も、行政も、大人たちが「できない」ばっかり言ってますね。
前回は、子どもへの感染リスクが少ないから、学校を続けることができたわけだけど、
今回はそうもいかないじゃないでしょうかね。子どもが感染して子どもの命が危ないのはもちろん、大人や高齢者にどんどん広がるんじゃないですかね。あの休校で、学校がストップした教訓はなんだったのでしょうか。
学校の感染予防対策なんて、「ザル」ですよ。
子どもはくっつくし、教室は密集する。「対策」なんて合ってないような形だけのもの。
だけど、学校は対策をアピールしないといけない。「こんなの意味ない」って分かっているのに。
学校で感染が広がってからじゃないと判断できないんですかね。
その時じゃあ遅いのに。子どもの命が危ないんだから「できない」を並べるんじゃなくて、
まずは命を守る。そのための「緊急事態」なんじゃないですかね。
いいかげん、矛盾に慣れすぎてませんかね。
何を大事にしてきたか
昨日は『学び合い』ゼミのゲストティーチャーとしてお声かけ頂き、話をしました。
話をしたことは、「何を大事にしきてたか」です。
おそらくこの時期の学校の先生はとても大変です。
新年度準備にはじまり、子どもたちとの出会い、学級びらき、授業スタート、多くの行事・・・思い出すだけで目が回りそうです。しかも今年はコロナの対応が続きますし、
いわゆる第4波が影響して制限のある教育活動しかできていない自治体もあるでしょう。
本当にもう、学校の先生方お疲れ様です。
さて、そんなに大変な時期であっても、子どもたちと過ごしていくのは変わりません。
「最初が肝心」といいますが、それは本当にそうだと思っていて、最初だからこそ子どもたちは教師の話が伝わると思いますし、「どんな先生なんだろう」と見ていると思います。
だからこそ、最初にすべきことは、よい第一印象を持ってもらえることだと思いますし、その印象が、その後の教育活動に大きな影響をもたらす、と考えています。子どもの印象は、大抵親にも伝わりますし、親の理解がなければ、『学び合い』は最悪止められることもあります。
『学び合い』は「特殊」なんです。
だから、やるからには「なぜそれをするのか」語れないといけないですし、そのためには、
「なるほど、先生はそういう理由でこれをしているのか」と2割に納得してもらえなければ、
それが反対のエネルギーになって、いつか爆発すると思います。子どもか親が猛烈な反発をすれば、きっと周りの同僚や管理職はブレーキをかけるでしょう。年齢や経験、職員室での立ち回りにもよりますが、管理職にストップかけられて、『学び合い』を続けていくのは難しいものです。
では、何を語るか。
それは、自分自身で考えるしかありません。
誰かの言葉を借りて話をしたとしても、それが腑に落ちていなければ、説得力がない。
ただ、最初からそんな完璧な語りをすることなんて難しいものです。
だから少しずつ、自分が考えていること、「やりたいこと」を言葉にしていく必要があると思います。手持ちの武器を磨いていく、ともいえるでしょうか。
昨日の会では、そういう「何を語るか」を参加者の方から引き出せたらよかったなあと思いましたが、あんまり時間を取ることができませんでした。まあ、「きっかけ」くらいにはなったかな。
それにしても『学び合い』を実践していない自分が『学び合い』を語るのはどうかと思ったけど、案外しゃべることができました。学校現場にいない私ですが、このような語る機会を得ることで、自分自身も「何がしたいのか」改めて考えるきっかけになったと思います。
「一人も見捨てない」と簡単に言えない理由の一つ
この記事だけでは判断つかない部分が多いです。
「障害を起因とする問題行動」というのが特に難しい。
ADHDだからといって、攻撃性があるわけではないし、暴力を奮うわけではない。
適切な対応ができなかったから「問題行動」に出たのであれば、学校側に問題があるのだろうと思います。たとえば、毎日のように注意をするとか、罰を与えるとか、その子にあった環境を提供できなかったとか・・・それがストレスになって問題行動になっているのであれば、発達障害を起因とした問題行動というより、子どもに適切な支援ができていないから起きる問題行動なのであって、学校側に非があるともいえるでしょう。
しかし、学校のような集団の場で、丁寧に適切な支援ができるかといえば、難しい部分も多いかと思います。「こまやかななケア」なんて言葉が時々出てくるけど、基本的に学級にいる先生は一人か、二人。そんな状態で、「こまやかな」なんてできるわけない。できるだけ、集団を安定させようと、「注意する」「罰を与える」といった短絡的な行動に至ってしまう面もあると思います。まあ言い訳にしかすぎないけど。
一方で、記事もあるように、学校側で「全力で対応」したのにもかかわらず、破壊や暴力といった問題行動が見られるのであれば、その部分は発達障害にかかわらず、止めなければいけないでしょうし、他の子の学習権も保証しなければいけないのですから、集団の中にいさせることができない、というのは当然の判断だと思います。親もどれだけその問題行動に対して向き合っていたかわかりませんが、もしADHDの特性でじっとしていられない、突発的な行動が目立つのであれば、医療機関を通して適切な対応ができた、とも言えます。
ただ、私立は「退学」することができるんですね。
なんかこれって、公立の学校でもよくある話のような・・・
そう、通常級で対応しきれなくなり、特別支援級にいれたり、フリースクールにいれたり・・・「子どもに合った支援を行う」「子どもに合った環境を選ぶ」というのはもちろん大事だけど「手に負えないから、別のところでよろしく」みたいな風潮はいかがなものかと思います。とはいえ、問題行動が止まらない、どうしようもできない部分にも「なんとかしよう」も無責任。
この難しさに対して「一人も見捨てない」なんて簡単に言えないんですよね。
僕だって正直・・・って思ってしまう。それがさらに、我が子が被害を被っているのであれば、なおさら。
いやはや難しい問題です。