見てはいけないアニメ・・・これだ。
オススメアニメTOP5
なんて言葉はよく見聞きするかと思います。
ドラゴンボール、ドラえもん、クレヨンしんちゃん、スラムダンク・・・
最近だったら鬼滅の刃など、いろんな方がオススメするアニメってありますよね。
しかし、
見てはいけないアニメ、なんてものに出会うとは思いませんでした。
いや、断っておきますがいわゆるクソゲーならぬ、クソアニメじゃないんですよ。
すごすぎて、見てはいけない
と一部から言われているのです。
そう、そのアニメとは・・・
うん、本当に見ない方がよかった。
ハマりすぎて、何日か夜更かしをしてしまった・・・。
続編もあるんだとか。ああ、これはヤバイ。
でも見るな、これ。
ちなみに、最近見た
ODDタクシーもなかなかいいですよ。
もうやめたらいいのに、学校のアレ。
研究授業ですよ。
それも前例踏襲、昔から受け継がれてきた型の研究授業。いい加減やめよ。
最初に断っておきますが「研究授業」がダメだということではありません。
時間と労力だけやたら食って、得られるものは教師の自己満足。
全然子どもの望んだものではないし、子どものために本当になっているか怪しい。
その諸悪の根源が「仮説検証型」の研究授業だと思っています。
だいたい「ーーならばーーーなるだろう」って、自然科学では当然でも、人に対してそんなこと簡単に言えるのか、と。気になるあの子の心さえも動かせやしないのに。んで、その仮説を実証していくために、延々長ったらしい指導案に時間をかけ、教材づくりに時間をかけ、決められた時数や授業時間は平気でオーバー。ついていけない子は全然ついていけず、無理矢理教師のペースに合わせられる。
準備のために夏休みも放課後も土日も費やしている時点で、時代に逆行しているのに
誰も「やめよう」なんて言わない。「これくらいするのが研究授業」という不文律のもと、
子ども置いてけぼりの何でもアリが横行。
もう私にはこういうのは耐えられないんですよね。
だって、誤魔化さない教育をずっとやっていますから。
子どもたちに思ってもないことさせるのなんて苦痛でしかない。
仕事だからそれも折り合いをつけないといけないのは分かってますよ。
だから、表向きは付き合いつつ、内心は全然力を入れず。
形だけ整えるのは得意だから、とにかく終えてしまうことに集中する。
ま、孤独な戦いをしてきたわけですが、そんな私のよき理解者となりうる研究を見つけました。マジでこれ。日本一。これだよこれ。研究授業に疑問を持つ、日本中の先生に読んでほしい。
デジタル・シティズンシップ教育
「シティズンシップ教育」という言葉、数年前にとある本を読んでいて知りました。
当時の自分には「これだ!」と思ったことをよく覚えています。
その時私は「どんな子どもを育てたいのか」ということをずっと考えていました。
きっと、自分の「語り」を試行錯誤していたからだと思います。
もやっと「自分の人生と自分の周りの社会をよりよくする人を育てる」と考えていたので、
「シティズンシップ教育」というのはピッタリだなと思いました。
もちろん「シティズンシップ教育」の方がもっと深く、広い概念なんでしょうが・・・。
さて、今日は「デジタル・シティズンシップ教育」を学びました。
一人一台端末が導入され、「インターネットの付き合い方」がより必要感が増したことで
注目されるようになったと思います。
今日のお話の中で「善き使い手」「善き社会の作り手」という話を聞いて、上に述べた「シティズンシップ教育」のことを思い出しました。「デジタル」がついても、基本的には同じなのでしょう。
よりよいクラスを創れる人は、よりよい部活を創ることができ、よりよい職場を創ることができる。一人ではできなくても、誰かの力を借りればできる。良くするかどうかは自分次第。
そういうことをずっと語ってきた私にとっては、あまり違和感がないことです。
さて、これからの学校教育はどうなっていくのでしょう。
大きな変化を余儀なくされているのに、今までの考え方に無理やり当てはめているといった感じです。
禁止、強制、抑圧
いったいどうすればこのような価値観を変化させることができるのでしょうか。
それを考えていくことが、私にとっても「シティズンシップ」なのでしょうね。
子育てをしていて気づいた大事なこと
子育てと仕事の両立大変だよね
子どもと過ごしていたら自分の時間ないよね
子育てはお金がかかるよね
そんな話をよく聞きます。
僕も似たようなことを話すことがあります。
妻ともよく話題になります。
でも、僕はいつもこう考えるようにしています。
子育ては自分たちが選んだこと
そうです。結婚して、子どもを授かった時のことを忘れてはいけないと思います。
望んで、願って、やっとのことで授かった命のはずです。
誰かに強制されたり、お願いされたりしたわけではないはずです。
なのにいつの間にかそんなことも忘れて、子育てをやっている親でいることが
「頑張っている人」みたいになりがちだと思います。
いやいや、そんならなんで最初からそれを望んだ。迷惑なのは子どもの方です。
昔、親から何度も言われました。
「誰のためにやっていると思ってるんだ」
この言葉が嫌いでした。
「なんであんたらが偉そうにそんなことを言ってるんだ」
「なぜ、産んだ。そんなに迷惑なら、最初から産むなよ」
「親の責任で子を作ったんだったら、最後まで使命を果たせよ」
そう思っていました。今となっては、親だって未熟だから、子どもから反発を受けたり、
思うようにいかなかった時に、ついそういう言葉が出てしまったんだろうな、とも思います。
でも、基本的には親のその考え方には否定的です。
親は(ほぼ)自分たちの意志で子どもを授かったんだから、責任を取るべき。と考えています。
現在私は、二人の子どもの子育て中ですが、この考え方は変わっていません。
子育ては自分たちの責任だと思っています。だから、子育てと仕事の両立は当然のこと、と思っています。(ここらへんは妻と考え方が合わない部分ですが・・・)
そんな私ですが、最近少し考えが変わりました。
子育ては親の責任、使命でやること、というより
親自身、僕自身の人生を豊かにしてくれるということです。
子どもを連れていろんなところに遊びにいきます。
いろんなものを買います。
お金も時間も労力もかかりますが、その時間がなかったら、果たして自分の人生は充実していたか、と考えるとたぶんしてません。
独身の時の方が時間とお金に余裕はありましたが、今のような充実感はなかったです。
先日、子どもたちが妻の実家に少し長く帰省した時、私は一人で自宅にいる期間がありましたが、自由ではあるものの、「つまんないな」と思いました。
やっぱり私にとって家族、子どもたちは自分の人生を豊かにしてくれる存在なんだろうな、と思います。
だから、子育てが大変だとか、自分の時間がないとか、お金がかかるとかいろいろ
思うことも言われることもあるけれど、やっぱり「ありがたいことだ」と思います。
これは、子育てをする前には気づかなかったことです。
これから先、保護者よりも年上になってきた時に、そんなことを語れるようになったら
いいなとも思います。「大変なのはわかるけど、いなくなったら寂しいですよね。生まれてから、今までのことを思い出してみてください。」と。
今、求められている授業。その名も・・・
ハイブリッド授業ハイフレックス型!
うひょ〜なんかカッコいい!笑
すみません・・・ご苦労されている先生方がたくさんいるんでした。
お疲れ様です。
さて、ハイフレックス型という聞き慣れない授業ですが、
このサイトで丁寧に説明されています。
要するに、対面授業とオンライン授業を同時並行でやるというもの。
なんか、遠い世界の話のように聞こえますが、実際に今、多くの学校の先生に求められているのは、これ。教室に子どもたちがいて、オンラインで繋いでいる子もいるという状態。
いやあ、一言いっていいですか。
マジですげえことなったな、オイ。
機器の操作とか、端末を使った授業とか慣れていない方にとってはたまらないですよね。
そりゃあ、グチの一つや二つ、いや百くらい言いたくもなりますよ。
正直、ICT活用をそこそこやっている私でも、このハイフレックスは相当難しい。
ま、愚痴を言っていても何も進まないでしょうから甘んじて受け入れないといけないと
思うのですが、私なりに対策を以下述べたいと思います。
方法① 教室の対面授業をそのまま流す
ま、一番これが簡単ですよね。オンライン会議システムは、どこの学校にもさすがに導入されているでしょうから。ただ、この方法の弱点がありますね。
質が悪い
ことです。見えにくい、聞こえにくい、参加しにくい。
これはもう限界がありますね。ライブをそのまま流し続けるのは。それを45分近くなんて、
うける方も大変でしょう。「ま、学校と繋いでいるだけマシか」と考える保護者もいるかもしれませんが、「このオンライン学習の質の悪さはなんだ」という苦情が入ってもおかしくないですね。あああ、もしそんなことを言われたらどうしましょうね。
まずは、先に言っておくしかないと思います。
「これくらいのことしかできませんがいいですか」と。
あとは、誠意を見せる。1日のうちに1時間でも次にあげる「フルオンライン授業」を行うこと。これくらいやる気がなければ、本当の意味で「学びを保証する」とは言えないですよね。
ただ単に教科書の内容を伝達するだけの授業はついに淘汰される日が来たってことですね。
今までずっと誤魔化してきた部分もあると思います。僕は甘んじて受け入れ、少しでもできることを増やしていくことを考えます。
方法②「フルオンライン授業」
もちろん、教室に来ている子もいます。
その子達も含めて、全員オンラインで授業しているようにすることです。
もうすでに気づいている方もいると思いますが、対面なら対面、オンラインならオンラインの方がいいのです。ただ、そうもいかないのが現状だと思うので、対面とオンラインを「ハイフレックス」しつつも、オンライン側に授業を行えば、全員が同じ質の授業を受けられることができます。ただ、そのためには端末中心の学習を行えることが必要です。ICTの活用に慣れてくれば「スライドを制作する」授業くらいならできるようになるでしょう。スライドを作成するような授業なら、教室にいてもオンラインでもあまり変わりはしません。授業のはじめに、それぞれの見通しを確認して、授業の終わりにふりかえりを行う。最低でもこの程度の関わりでなんとかなります。でも、なんでもかんでもスライド作成の授業ではないので、そう簡単にはいかないでしょうね。
方法③ 課題の設定と評価は教師が行い、活動は子どもに任せる授業
②に少し触れましたが、教室で先生がずっとしゃべっている授業をやめると、だいぶ気が楽になると思います。ただ、何もしないのは授業として成立しないでしょうから、最低限何をするかというと、その時間何をするか明確にする、その時間何をしたか評価することだと思います。そして、活動は子どもに任せる。これで、スライド作成にこだわらなくても授業が可能です。オンラインの子は必要に応じて、チャット等で質問を行い、教師または子どもたちが対応をすればよいでしょう。さらにこれを発展させて、課題を単元丸ごと出してしまいさえすれば、時々チェックをするだけで、子どもたちは勝手に学ぶでしょう。もちろん、全然学ばない子もいるかもしれません。その際は、可能な範囲で「一人も見捨てない」と語ることだと思います。話すのができないなら、ビデオ会議でもチャットでもいい。「やろうぜ」と言う子がきっといます。
さて、だらだらと方法を述べてきましたが、要は今までのツケがきたってことです。
チョーク&トークの授業をずーーーーーっとやってきた方にとっては、今回の変化はとても
大変でしょう。ここで変えるか変えないか、問われているんだと僕は思いますよ。
〜心に火を〜「学びを止めるな」というけれど
Facebookで反響があったので、こちらに加筆修正をして投稿します。
「学びを止めるな」「学びを保証する」
この二つの言葉がぐるぐる渦巻く今日この頃。
僕はこれらの言葉を「学び続ける人へ」「全員が分かる」
という言葉で、数年前から試行錯誤してきた。
もちろん、いまだなお「学び」とは何か、自信を持って語れないし、「分かる」とは何かを語れない。でも、ずっと目指してきた。子どもたちの姿を成長を見ながら、つかみそうで、つかめない。だからこそ、簡単に達成できるものでもない、と思っている。
なのに、「学びを止めるな」「学びを保証する」がずいぶん簡単に使われているように思う。端末を配布することが「学びを止めない」ことで、学校で先生が行っている授業を配信することが「学びを保証する」かのように使われている気がする。
一年前、僕はいつものように「学び続ける」こと「教科書の内容を全員が理解できる」ことを目指していた。でも簡単じゃなかった。それまで「子ども同士の関わり」を前提にしていたからだ。僕の授業から、それを削いだ瞬間、それまで可能にしていたことが尽く達成できなくなった。相当試行錯誤したけどダメだった。やはり、30数人の子たちすべての「わかる」を網羅するなんて授業を教師一人でできるはずなく、僕の「全員が理解できる」を目指した授業は「関わり」ありきなんだろうな、と思った。
それでも落ち込んでいるわけにはいかない。数ヶ月後にせまる一人一台端末導入に向けて、一人ひとりに学び方や学ぶ内容の裁量を持たせられるよう、単元や学習ごとにまとめて課題を配布するようにしていた。幸い、僕が授業に来る日に欠席してしまった子や諸事情で学校にこれない子も学び続けることができた。僕にとって「学びを保証する」ことの「最低限」は、学校に来ても来れなくてもほぼ同水準の学びの機会を提供することなんだ、とこの時、理解したように思う。
今、学校に迫られているのは、極端に言えば「今までの教育活動を強引に続ける」か「やめる」かの二択なんだろうな、と思う。昨年はハード面が整備されず、後者を選ぶしかなかったけど、今年はハード面が整備されている。だから、前者を選ぶしかないんだけど、それが何十分も画面越しに見にくい黒板を見せ続けたり、雑音入り混じる教室の音を流し続けることになり、そして「学びを保証する」と説明されている。本当に「学びを保証する」ために、「今までの教育活動をかえる」という選択肢はない、気がする。
今の僕には、3つ目の選択肢を提案することも実践することもできない。1つ目の選択肢「今までの教育活動を強引に続ける」ことに加担するしかない。でも仕方がない。今に始まったことじゃないから。そしてきっといつかチャンスは来ると思って過ごしていきたい。それまでは、仮面をかぶっておく。言っていることとやっていることが一致しないのは苦しいけれど、心の中に火を燃やしながら「やってやる」と思っている。
苦手なタイプとどのように「折り合い」をつけるのか
みなさんは、苦手なタイプの人っていますか。
苦手なタイプの人と一緒に働くことになった時、どのように「折り合い」をつけますか。
僕は苦手なタイプを自覚して関わり方を変えるようにしています。
もともと苦手だったのに、そのうち普通になってくることってありますよね。
おそらくそれは、自分自身の心の持ち様が変わったからだと思います。
また、相手のよいところを見るようにしたり、距離をとったり、色々と方法はあります。
だから、「苦手」レベルだったら、なんとかなるのではないか、と思っています。
ただ、苦手以上に「嫌い」なタイプが現れた時は、かなり難しいですね。
相当ストレスを溜めることが今までの経験上あります。このような「嫌い」なタイプの人たちとはできるだけ、接点を持たないようにしたいのですが、そうもいかないことがありますよね。今後もそういうことはあると思いますが、なるべく今までの経験を踏まえて付き合い方を
考えていくことが大事なのかなと思います。
『学び合い』を通じて「折り合いをつけること」を子どもたちに語るようになりましたが、
語っている私自身が、この年になっても「折り合い」をつけることがあまりできていません。
だから、子どもたちに偉そうに語るのはなんか変だな、と思います。
ただ、相手を攻撃してもいいことはないし、陰口を言ってもいいことはない。そういうことは子どもたちに語れます。もちろん「仲良くしろ」とは言わないです。
さて、私が苦手としているタイプの一つを紹介します。
「偉そうに他人に語るけど、何もできない」タイプの方です。
このようなタイプの方はおそらく、自分の能力が劣っていることに対して向かい合うことをせずに、自分を誇示することで生きてきた人なんだろうな、と思います。
能力の高い人に対して、同調しながら偉そうにするけれど、一人では何もできない。
ぱっと見すごい人なのかと思わせることはできるけど、しばらく付き合っているとだんだん底の浅さが見えてきます。言い訳ばかりで新しく学ぼうとしないわりには、できない人をバカにする。まあ、残念な方です。そういう方が、上司だったり、先輩にいたら大変ですね。
このような方への一番の対処法は「流す」こと「おだてる」ことだと思います。偉そうに語ることに対しては「流す」やろうとしないことに対しても「流す」自慢することに対しては「おだてる」ま、これでOKでしょう。
一例を紹介しようと書いてみたら、意外と分析できていました笑
苦手と言っておきながら、結局関心を持っている自分、めんどうくさい・・・
ああ、折り合い続ける動物、人間。大変だ。
この本、実は・・・
この本、実は・・・
『学び合い』の本じゃん!
そして・・・
何冊も『学び合い』関連の本を読んできた身として言えるのが
とてもよくまとまっている!!
よくまとまっている、というのはなんだか偉そうですね・・・。
今の教育現場のぴったりな内容が書かれているという意味で
「よくまとまっている」と感じました。
最近の西川先生の本は買わずに借りることの多いのですが(スミマセン)
この本は買って繰り返し読みたいなと思います。
個別最適化・・・今の学校の教育で実現するには『学び合い』しかないんですけどね。
最近出てきた「個別最適な学び」に関する文章を色々見ていますけれど、ぜーぜんダメ
ごちゃごちゃごちゃごちゃ。いったい先生は何人いるのよ。子どもたちはどんだけお利口さんなのよ。って思ってしまって、なんにも入ってこないけど。
この「個別最適化の教育」に書かれていることが、一番現実的だと思うんですけどね。
なーんか綺麗事ばっかりなんですよね、どんな教育書、読んでも。最近。
元気になった。今こそできること
ちょうど1ヶ月くらい前、精神的に調子を崩していました。
うまく寝られない、寝ている間に自傷行為、SNS恐怖、人間不信・・・
そんな状態でしたが、ずいぶん元気になりました。
朝起きてからのランニングも快適だし、チャレンジ精神もわいてきます。
発信しようという気持ちもあるし、周りとの関係もうまくいっているように感じます。
いつもの私に戻りました。不思議なものです。周りの環境は何一つ変わっていないのに、自分自身の感じる世界は別物です。人間とは感情の生き物なんだろうな、ということを思います。
さて、元気になった今だからこそできることは、「寄り添うこと」です。
私が調子を崩している時、周りからは何もわからなかったでしょう。
そうです、勝手に調子を崩して、勝手に塞ぎ込んでいたんですから。
だけどやっぱり、周りの理解や支えはありがたかった。こういう時だからこそ、
声をかけてくれる人は、本当に大事な人なんだろうな、と思いました。
このように思えたのは、調子を崩していたからこそ。
元気な時には気づかなかったと思います。でも、今はその経験を踏まえて、元気になった。
だから今だからこそ、見た目は分からなくても調子を崩している人、話を聞いてほしいと思っている人、自分のことを分かってほしい、と思っている人に寄り添えたらいいなと思います。
私だけかもしれませんが、そのように寄り添うことが根本的な解決につながるわけではないと思います。今回、調子を崩した際、原因をあれこれ考えて、対処をしていましたが、結局分かったことは
時間が解決する
ということです。
医者の必要のない病気は免疫が時間をかけて体の調子を戻すように、
精神的な不調も時間をかけて過ごしていれば、次第に回復するんだと思います。
もちろん、原因そのものから離れるとか、周りが理解をするとか、考え方を変えるとか、
いろいろあると思うけど、結局それらは回復を早めたりするわけではないと思います。
だから、寄り添うことは、「あなたの味方になって、待っているよ」というメッセージをわたすだけです。実際に改善するには、私のように1ヶ月と早い方もいれば、もっとかかる人もいるでしょう。それをずっと待つ、そう考えたいです。
一度落ち込んだことで、自分の生き方を考えることもできました。
いかに自分が身の程知らずだったかも分かりました。
自分の立場をわきまえ、感謝の気持ちと謙虚な気持ち、そして周りの話をしっかり聞き、
賞賛する。このような心がけを意識することができるようになったとも思います。
さ、明日も楽しみだ。頑張ろう。
研修の極意
参加者のニーズに寄り添う
これにつきます。
もちろん、多様なニーズに対応することはできません。
多くの人が共通するニーズに合わせても、
「物足りなかった」と思う方は必ず現れるでしょう。
だから、本当に全員を満足させるのであれば、多様なニーズに答えられる集団を形成
することが必要だと思います。
しかし、それには時間と労力が必要でしょう。
飛び込みで研修を行う私には、きっかけを与えることはできても持続することも
形成することもできません。
だから私は一発勝負で、できるだけ多くの人を満足させる研修を行う必要があります。
そうだと分かっておきながら、私のこれまで行っていた研修は、私自身が「大事」と思っているものでした。それはこれまでの自身の経験だけでなく、様々な通知や文書を見てきて得た最適解です。
ただそれは、あくまでも「私自身が大事」と思っていること。
参加者が求めているものでなければ、あまり価値はない。
人は、運動が大事なのは分かっていても、それを無理なく、
ストレスなくできる方法を求める。
甘いものや油っぽいものが体に悪いのは分かっているものの、
それを摂取することを控えるのではなく、なるべく影響の少ない代替品を求める。
そんな関係に似ている気がします。
参加者のニーズに寄り添うためには、聞くこと。
その場でもいい。事前にでもいい。
そして、それに答える。答えられるように、ネタを大量に準備しておく。
これが、今の僕に必要なことだと思います。
あとは、テクニック。
これはそんなに難しいことではない。
台本を作ること
何度か誰かに話をして練習すること
この二つだと思います。
スライドはこれをもとに作れば、シンプルになるはず。
いやあ、それにしてもいい機会をいただいている。感謝。
そして、次のチャンスはものにしたい。