都合のいいように
自分自身もそうなんですが、
お便りなどに子どもの作文をのせたり、
周りに紹介したりする時って、
「先生が気に入ったもの」を使っているんですよね。
それは極端なことを言うと、
先生が意図していることや、願っていることをそのまま表現したもの
だったりします。
だからそれは教師の都合だと考えています。
教育現場には様々な実践があります。
子どもたちが意欲的に参加したり、一生懸命になったりする実践もあります。
そして、それを行ったときに、都合のいい子どもの反応だけを切り取って、
「この実践はすばらしい」と表現していることをよく見かけます。
しかし、その中でも「合わない」子がいるはずです。少数かもしれませんが。
そして、その実践に合わない子のことを見て見ぬふり、または気づかないようにしていると思います。
子ども全員にフィットする実践なんてあるわけがありません。それを認めるかどうかって、大きな問題だと思います。それをあたかも全員が意欲的だったとか、一生懸命だったというのはおかしいと思います。むしろ、そういうのを一定数認めた方がよいと思います。
『学び合い』が合わないと言う子もいると思います。私の感覚では「一斉授業」の方が楽という子や、1人でいる方が楽という子です。
そんな子たちには、「クラスの中には『学び合い』で分かるようになった子がいるので、これを続けさせてほしい。」と話します。そして「一人でもいいんだよ。もしみんなで勉強しようと思ったらいつでもおいでね」という話もします。
『学び合い』は子どもたちの多くが気に入ってくれて、あたかも「これ以上のものはない」と思ってしまいます。でもやっぱり『学び合い』合わないなあ、という存在の可能性を忘れてはいけないと思います。