【備忘録】
・交流学級は子ども自身が選ぶべきではないか?決められた学年、決められたクラスに交流に行くことは、子どもの居場所を作ることにつながるのか?結局教師の都合なのではないか。
・特別支援教育は最終的になくなってしまうことが理想。いろいろな子が混在する中で、お互いに助け合っていけばいい。でもそれを成せないのは、現在の教育システムの問題、授業形態の問題ではないか。
・宮崎のあるうどん屋の入り口に段差があった。車いすの客が入ろうとしたときに、
それを抱えてあげる人たちがいた。そういう人たちがいるから、段差なんて関係ない。
その段差をなくしてしまうことが「バリアフリー」なのか。
・大学入試改革とアクティブラーニングの関係に目がいっていたが、それと『学び合い』をどうつなげるのか。大学入試を突破するための『学び合い』なのか。
答えのない答えを見出すための『学び合い』なのか。
もしかしたら、『学び合い』は答えのない答えを生み出す力を醸成することができるかもしれない。一年間にとどまらず、継続的に行えばできるかもしれない。アクティブラーニングが目指している人材を育成できるかもしれない。
でも本来『学び合い』が目指しているものは何か。
「一人も見捨てない」クラス、学校、地域…ではないか。
『学び合い』はアクティブラーニングを実現することができる。
でもアクティブラーニングが目指していることと『学び合い』が目指していることは、根本的に違うのではないか。違うというか、もっと高い理想なのではないか。
これからの社会のために、そしてその社会で生き抜く力をつけるためのアクティブラーニングを行っていくことは、時代の流れからも必然だろう。しかし、それを行うことはそんなに容易ではない。そしてエリート教育にもなりかねない。
『学び合い』はうまく集団に馴染めない子、ハンディを持っている子、いろいろな個性をすべて受け入れていく。そこからエリートも生まれるだろうし、その個性を生かして、生き抜いていく子も生まれるだろう。それぞれの役割でそれぞれの場所で、助け合って、支え合って、幸福を実現する…。やはり、アクティブラーニングよりも高尚な理想なのではないか。
大学入試改革とアクティブラーニングは今の教育の流れであり、
無視するわけにはいかない。
これからの大学入試が今まで違って「人物」で評価するようになり、
「主体性」や「思考力」や「表現力」で評価されるようになるという
意味で、今の『学び合い』で行っている学習はそれにつながっているという認識でよいのではないか。そして、その認識以上に、上記の理想がある!と思えばよいのではないか。
やはり、『学び合い』実践者と語ることは有意義です。