自分の想いをつらつらと
『学び合い』に出会ってから、どんどん自信を失っているように感じます。
「ああ、今日もうまくいかなかったなあ」
「・・・の時気づいてあげられなかったなあ。」
「なんであんなこと言ったんだろう」
そんなことを反省します。
隣のクラスの先生や、他の実践者の方と話をしていると
「子どもたちがいきいきしているなあ」
「笑顔がすてきだなあ」
自分に足りないことが、見えてきて沈みます。
決して私は、ネガティブなタイプというわけではありません。前向きに何事も行う方です。
ただ、「理想像」というものがあるわけではないんですけど、「自分がこうなりたい」という姿がボヤっとあって、それに足りてなかったり、全然それてしまってしまうと、「あーあ」ってなるんですね。
決して謙虚とかそんなのでもありません。
周りからは自信に溢れているといわれることが多いですし、時々「自分でなんでもできると思ってる」と指摘されることもあります。
謙虚に振る舞おうと思ってるのではなく、
誰からか学ぼうとしているのではなく、
人から自分に足りないもの、自分にはないものを、見つけたり感じたりするので、
いつの間にか、ちょっとだけ後ろ向きなことを思ったり自信なさげだったりするんです。
そして、
結局のところ、「人間性」とか「器」とかという言葉に落ち着くんです。
『学び合い』に出会って、自分の人間性とか器が分かってきたんだと思います。そして、それが現れるんだと思います。
子どもたちへ語ること
子どもたちを信じること
よりよい課題、評価を行うこと
これらすべてが、試されるのが『学び合い』だと思います。
毎年、毎年、試されて落ち込む。
知識が足りなければ本を読むし、
悩みがあれば相談する。
そして、また落ち込む。
自分の成長を感じられたら、少しは前向きになるんだろうけど全然それを自分で感じることができないし、しようと思っても、目の前の子どもたちの姿がまさに自分そのものだから「ああ自分成長したな」って実感することがなかなかできない。
少し前に「この会に来た時と比べて変わったよね」とある先輩に言われたことがありました。
すごく救われた言葉でした。
「子どもたちがどんどん勉強しているね」
「先生、勉強が楽しいです」
「うちの子が、このクラスがとても楽しいと言っています」
同僚や子どもたち、保護者からこのような言葉をかけてもらっても嬉しいです。でも、なんか違うんです。それは自分に満足していないからだと思います。
「この程度で本当にすみません。ほかの先生だったらもっといい授業ができたかもしれません。子どもたちがもっとイキイキしていたかもしれません。クラスが楽しかったかもしれません」
本当に満足しているかもしれない子どもたち、保護者の方に対して、「この程度」なんて言ってはいけないと思います。
でも私は、まだできると思うんです。
それは私自身の問題だからです。
私自身が変われば、もっと変わるはず。
『学び合い』はそういうものだからすごく、すごく感じます。
「先生、なんか語りがよくなったよね」
「先生、子どもたちへの接し方が柔らかくなりましたよね」
「笑顔が増えたね」
言われるんなら、こんなことを言われたいです。そう、私は子どもたちのために『学び合い』をしていると同時に、自分自身の自己実現のために『学び合い』をしているんだと思います。もやっとした自分の理想のイメージの自己実現。なんともまあ、あいまいなものですが…。
そんなわけで、来週も頑張ろうと、どこからかやる気がわいてくるのは、自分のよさだろうと、自分をほめてみて今日のブログを終えたいと思います。