苫野一徳著
『教育の力』の中に、「討論」について書かれていました。
わたしたちには、お互いが納得のいく考えを見出だしていかなければならない時は、しばしばあるのものです。
何かを協力して決めていくとき、あるいはひどい争いを避けるために、何らかの「共通了解」を見いだす必要がるのです。
しかし、今の学校教育には、そうした「共通了解」を得るための「考え方」「議論の仕方」を学ぶ機会がほとんどありません。議論といえば、勝ち負けを決めるようなディベートか、さもなければ、さんざん議論を行ったあげく、「答えは出ないけど、いろいろ話し合えてよかったね」で済ませてしまうような、あまり建設的とはいえないようなものが大半だと思います。
確かに、学校現場で「共通了解」を得るための考え方や、議論の仕方を学ぶ機会はあまりないと思います。
6年生の国語の教科書に「学級討論会しよう」という教材がありますが、その討論会は、より説得力のある意見を出すことを目ざします。そのことについて以下のように書いています。
ある論点について、肯定側と否定側に分かれて議論をし、そのどちらかが説得的であったか決着をつけるこの
(競技)ディベートの形式は「はじめに」で述べた「問い方のマジック」にかかりやすい思考のくせを、子どもたちに身に付つけさせてしまう可能性があるのです。
※「問い方のマジック」 「あちらとこちら、どちらが正しいか?」と問われると、わたしたちは思わず「どちらが正しいのではないか」と思ってしまう傾向があるのです。
確かにその通りだなと思いました。昨年私は、『学び合い』を発展させてより高い段階にするために、
ディベートを取り入れたりしました。それはそれでとても盛り上がったのですが、この本で指摘していることを思い出しました。ケンカのようになってしまう議論、議論が終わっても不完全燃焼になってしまう議論。熱の入れ方に差がある子どもたち。そのときは、「これもありか」と思っていたけど、どんな子どもたちを育てたいのか。学校は何を学ぶべきか、ということが自分の中でまだ曖昧であり、「行き詰まった学び合いをよりよくしたい」という理由から行ったために、そのような違和感を感じたんだと今ごろになって気づきました。
そうだ、お互いを納得させるような議論よりも、お互いの共通了解を得るような議論ができるようになる方が、
子どもたちの人間関係も良好になるし、学校がそのようなことを学ぶ場だと考えたら、どのような話し合いをすればいいか見えてくるはず。「なんかよさそうだから」で取り入れることの危険性ですね。
『教育の力』何度読んでも、発見があるし、繰り返し読みたい本ですね。
他の著書にも挑戦したい。