ある精神科医の方と話したこと(記憶をたどって書いているので、正確ではないこともあるかもしれません)
発達障害は「個性」だよ。ADHDだけは薬があるから、それを飲めばいい。
そしてそれをちょっとずつ減らしていく。それと同時に親と話をしていく。
大事なのは、それらを受け入れられること。親が変わっていくこと。
その子のあるがままをうけいれた先に、親子の幸せがあるよ。
その「個性」を生かせないのが「学校」なら、そんなところはいかなくていい。
我慢しなくていい。ほかの道を探せばいい。
結局ね、存分に愛情を受けたら、子どもはそのうち巣立っていくんだよ。
だから、たっぷり愛情をかけてあげればいいんだよ。
でもね、こういう話をしていると、自分のところにこなくなる親がいるんだよ。
でも仕方がないんだ。私は来た人を全力でサポートする。
こんな話を聞いてから数ヶ月がたちました。
私は子どもたちの「個性」を受け入れているか?といえば受け入れているとは言えません。
なんとか、学校の枠にはめようとばかりしています。
「かけ算なんてできなくていいじゃん!」とこわくて言えません。
「かけ算は出来る方がいい」と言ってしまい、子どもたちにせまってしまいます。
課題が進んでいる子、遅れている子がいると、遅れている子がきになって仕方ないです。
「まあ、できたところまででいいじゃん」と言えません。
でも最近ちょっとずつだけど「あなたらしくでいいじゃん」と言えたり、思えるようになってきました。
ある程度、私の考えが子どもたちにだいぶん浸透して(私の言う通りにしている危なさはちゃんと承知しています)子供同士がサポートし合ったり、学級環境を子どもたちがよくしようとする姿勢が整ったからだと思います。あとは、私が繰り返し「受け入れよう」と自分に言い聞かせてきたからかもしれません。そうすると、ふとあの精神科医の先生に言いたかったことを思い出しました。
たしかに、学校は「個性」を受けれられない子どもにとっては「いく意味もない場所」かもしれません。でも本当にそうなのか。たしかに我慢もすることがある。ただ、人から得られることもたくさんあります。「仲間」を得られるのは学校でしかないです。
また、親にネグレクトを受けていたり、親自体に精神科医に連れて行こうという発想がなかったり、する子たちに希望を持たせられるのも学校だと思います。もちろん、学校にも限界はあります。家庭の状況に踏み込めませんから。(そこまで踏み込もうとするのには反対です)
その限界を受け入れつつも、子どもたちの力を借りたら、一人ではできないこともできるようになると思います。
つづく