子どもは有能
『学び合い』の子ども観
「子どもは有能である」
私はずっとこの観のことを
「子どもはすごい」
「教師が想像できないことを、できる力を持っている」
と捉えていました。
だから子どもたちが目の前の課題を解決するために信じて待たなければならない。そう思っていました。
しかし、なんでもかんでも信じていていいのか、子ども同士の方がいいのか、そんな問いがいつもありました。
どうしても待てない、我慢できない時は手出し、口出しをしてしまっていました。すると、どこからともなく「それは子どもの有能さを信じていない」という声が聞こえてくるようでした。
「いったい自分は、どうすればいいのか」いつも考え続けていました。そして、最近ある方にヒントをいただきました。「子どもは有能」というのは、「能力を有している」という意味だ。と。それを聞いて、ふっと色々な疑問が解決されるような気がしました。そこで、もう一度『学び合い』の手引書をみてみました。
以下引用。
子どもたちは、有能です。どれくらい有能かと言えば、教師たちと同じくらいです。
子どもは教師と同じだけ有能であり、教師と同じだけ無能なのです。
たしかにこの文を読むと「子どもはすごい能力がある」よりも「能力を有している」と考えた方が自然かなと思います。
ただ、まだ曖昧。
ちょっと教室に当てはめて考えてみました↓
30人の子どもたちが解決できない問題は、教室にいる31人目の存在、教師が解決すればいいのであって、それが30人の子たちの「有能さ」を否定するのではなく、30人の子たちが「その問題を解決する能力を有していなかった」のであり、31人目の教師が解決する能力をたまたま有していた、ということ。一方で別の問題では、教師が解決できなくても30人のうちの誰かが解決することができる。それは、教師の「有能さ」を否定するのではなく、「その能力を有していなかった」ということ。
こういうこと?
うーん。。。教室の姿から考えてみる。↓
例えば、跳び箱の飛び方をどうしても教えられなかった場合、教師がそれを教えるのは、その能力を「有している」だけ。一方で、跳べない子を「励ます力」は教師にはないかもしれない。
ケンカをした子たちの仲裁に入った子たちが、ケンカをしている子を刺激してしまい、悪化させてしまったという時に、教師はケンカが起こった際に、どのように仲裁に入ればいいか、対処法の一つを知っているけれど、子どもの心に寄り添うことができるのは、教師ではないかもしれない。
こういうこと?
つまり、なにかを解決する能力の数や質は、教師の方が多く、高いかもしれないけど、それが子どもが「無能」というわけでなく、子どもにも教師が解決できない能力を有している可能性があり、そういう意味で「有能」だということ。これはすなわち「対等」だということではないだろうか。教師も子どもたちと同じフラットな関係から、教室の課題を解決していく・・・そういうことなのではないかと思います。
では何で私は「子どもは有能」を「子どもたちにはすごい力がある」と捉えたのであろうか。
「子どもたちは能力を有している」という子ども観で考えたらいけないのか。
もしかしたら、「授業は教師が進めるものだ」「子どもに任せるなんてできない」と思っていた人に、ヒントというか、考え方を一変することができること、そして教師には、子どもに任せられるものがあるし、どこまで任せるか考え続けるべきだ。ということを「教師が学ぶ」ためにあるのではないか、と思いました。
うーん、とは言えなんかモヤモヤして仕方ない。これは明日の学習会で話題にしたいな。