数年前の私は「漢字を丁寧に書く」ことを子どもたちに「指導」してきました。
毎日ノートを丁寧に見て、朱を入れ、やり直しをさせました。
上手なノートには花丸を書いたりしました。
子どもたちの中にはやる気になって丁寧にノートを書いてくる子がいました。
適当にノートを書く子が減りました。
数人の親からは「厳しく見てくださってありがとうございます」と言ってもらいました。
この「漢字を丁寧に書く」「指導」は保護者の信頼を得、普段教えることの少ない私の実践を補完するものだと考えていました。
でも内心わかっていたようで、知らんぷりしていることがありました。
厳しく見ればみるほど、自分が苦しくなること
いくら厳しくしても雑にしたり、字が丁寧にならない子がいること
丁寧なノートを作るあまり、時間をかけすぎる子がいること
漢字のノートを見る時間に追われて余裕がなくなること
そしてこの数年をかけて、自分の中で決心がつきました。
「やめよう」
今年度は漢字の練習に今までのように厳しくチェックを入れることをやめました。
ノートの丸つけもあっさり。花丸は時間がかかるのでしません。
もちろん、今まで厳しく見る習慣があったためか、ざっと見ても間違いにはすぐに気づけるのでそれは訂正しています。また、厳しく見てほしい子には丁寧に見ると宣言すると数名の子はそれに応じたので、その子たちだけはかなり丁寧にみるようにしました。
そして、子どもたちには漢字の学習をどんどん進めていいと伝えると、3週間のうちに1学期に学ぶ漢字の練習をほとんどの子が終えました。また、何回か小テストをしてみると、以前のようなやり方の時と漢字の定着率は対して変わらないことがわかりました。1回書き込みをした後、たいした練習していないのに100点とる子もいてて、ノートの練習が絶対ではないことがはっきりました。
そうと分かれば、もう丁寧に見る必要性も感じなくなりました。
かける時間に対して得られるものが少なく、失うものが多い。
「大事にしていること」から離れるのにはだいぶ時間はかかりましたが、なんとかできました。
言葉悪いですが「自己満足」だったと思います。
自分の「指導」が「誰にとって」「何のために」と問い続けると「本当に必要か?」と思えてくると思いました。それが自分が大事にしていること、でもです。
本当に、ずっと大事にしていたんだけど、やめてしまえばすごく気楽。
あの時間は何だったんだろう。
ということは、今自分が大事にしていることも、そのうち「いらない」と思えるようになるのかな。
うーむ、不思議なきぶんです。