おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

小学校の先生のブログ→引っ越しました→https://note.com/onisensei024

授業を見学して

今日は、『学び合い』仲間であり、大先輩でもあるO先生の『学び合い』の授業を見学に行きました。

 

「どんなクラスを目指しているのか」「どんな子どもたちに育てたいのか」という教育観がO先生のクラスの様子から伺えました。「安心感」というキーワードでいえば、ここまでのクラスはみたことはありません。一回の授業ではなく、4月からずっと積み上げ、語り続けてきたもの。教室掲示の中からも、子どもたちの関わり方からも、先生の言動からもわかりました。これを言葉で表現するのは難解ですし、「これが『学び合い』だ!」というのもちがう。O先生が子どもたちと築き上げてきた「一部」であり「過程」であり、「O実践」といった方がストレートかもしれません。

 

O先生は、「これを『学び合い』と呼ばなくてもいい」とおっしゃっていました。確かにこれを『学び合い』と呼べば、はじめてみる人、これからはじめる人にとっては、この教室を「『学び合い』スタンダード」「『学び合い』の理想の姿」と捉えてしまうかもしれません。変に誤解して「立ち歩いて学んでいるのがいいんだ」と軽く受け取ったり、「こんな雰囲気のクラスをどうやって作ればいいんだ」高すぎる目標と捉えたりするかもしれません。だからこれは「O先生が、『学び合い』の観と願いを解釈して具体化した実践であり、過程であり、一部」という認識の方がいいのではないかと思います。「『学び合い』の一例」でもいいです。

 

このように考えていくと、私のクラス、私自身と比較してしまいます。

自分のクラスに足りないもの=私自身に足りないもの

なんだと思います。

もちろん、O先生はO先生、私は私なので比べるものではないとは思います。

しかし、O先生の教室、O先生の言動は私の理想でもあり、憧れなんだろうな、という思いもあります。

 

O先生と子どもたちとの姿を見て、「ああ、子どもたちと先生はお互いに信頼しているんだな」「子どもたちはこのクラスで、この先生のもとだから、自分らしくいられるんだな」と思いました。なんかすごく微笑ましく思いました。私が思う教師として一番理想的な姿だろうなと思いました。

 

おそらくO先生は、『学び合い』の2つの観を私よりもさらにさらに突き詰めていると思います。

「人は多様だ」「子どもは有能だ」という事を、私以上に誤魔化しなく語り、行動しているんだろうと思います。それは、人間性とか、器とかそういうレベルで圧倒的に広く、深く・・・。だから、10年そこらの教師経験で私が辿りつけるものではないと思います。教師としてでなく、人として生きている時間も圧倒的にO先生よりも短い。だから、すぐにあのレベルのことができるとは思ってはいません。

 

ただ、心がけ次第で、近づける事は間違いないと思います。ほんの一歩、ほんの半歩だけかもしれないけど。

それが、私にとって、学校の教師として「人格の完成」を目指す過程なのかもしれません。

『学び合い』はそんなことを私に教えてくれるきっかけを作ってくれました。

いつまでも答えのないその先へ。