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#22 カ行変格活用

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こ き く くる くれ こ(こよ)

 

カ変。カ行変格活用。

ああ、久しぶりに思い出した。よく覚えていたな、古典文法。

「あり をり はべり いまそがり」って今頭に浮かんだ。

 

高校の国語の授業で何度も口に出して覚え、テストで何度も問われた古典文法。「要覧14〜15ページ」は何百回と聞いた。

そこまでして覚えた古典文法を、高校卒業してから活用したことは、ない

生きる上で役にたったことは、おそらくない

 

なら、なぜ学んだ?なぜ覚えた?入試のため?教養のため?

 

当時の自分にとって勉強は、試験と入試のためだった。それに関係のない授業はどうでもよかった。世界史なんて、高2、3学期の期末考査、4点。留年の危機に立ち、世界史の先生から「おみゃーブラバンでつったかつったかやっとるけんやろー」と言われたことを今でも覚えている。そう、当時の自分にとって最大の関心事は、部活。親がある程度納得して、留年しない程度の成績だったらいいと思っていた。数学と理科に力を入れていた。

 

昨日、高校の国語の先生たちと話をしていて、そんなことを思い出しながら、ふと思った。

 

「高校生に、国語を学ぶ意義はどう話しているのか」

 

小学生は意義なんか話さなくても、学ぼうとすることが多い。最初は学ぼうとしなくても、友達が声をかけてくれることで、学び出すことがほとんどだ。教科を学ぶ意義だとかは、おいおい話していけばいいけど、小学校の国語の内容って、生活に直結していたり、他の教育活動に関わってくることが多いから、子どもたちにも話しやすいし、子どもたちも理解しやすい。

 

そういう意味で、自分は国語の授業をする際に、小学生の子どもたちに依存しているといえば、その通りだと思う。でも、高校生はどうか。高校生に「カ行変格活用」を学ぶ意義をどう説くか全く想像つかない。少なくとも、高校生の自分は、上に書いたように、試験と入試にしか意味を見いだせてなかった。昨日話していた方も、「古典が受験に必要ない子たちに、授業をするのはしんどかった」と言っていたけど、自分も同じ状況ならたぶんやる気なかったと思う。

 

昨日話していたある先生は、「本が読めるようになったらいいよ」と言っていた。確かにそうだ、と思った。今の自分は読書が大きな影響を与えていると思う。本を読まない生活は考えられない。また、大学生の頃に、有り余る時間を利用して、小説をたくさん読んだのも、今考えればとてもよい経験だったと思う。

 

でも当時、部活にほぼすべてを捧げ、試験勉強しか必要性を感じず、理系クラスにいた自分は、読書をする機会なんて3年間で一度もなかった。あ、正確にいえば参考書は読んでいたけど、小説とか新書とかそういう類の本は一切読んでない。「読もう」とも思っていない。

 

高校卒業後、1年間の浪人生活を余儀なくされ、当時仲良くしていた友人からいくつか小説を勧められ、孤独な日々を紛らわすかのように、小説を読むようになった。また、いわゆるハウツー本もこの頃読むようになった。部活に捧げた自分にとって「生き方」のヒントを得るためには、本を読むしかなかった。幸い、この時の経験が、大学生時代の読書につながり、今に至る。

 

そう考えると、自分が本を読む(読める)ようになったのは、小中高と国語の授業を受けてきたからか、と思う。でも、やっぱり附に落ちないことが一つ。

「カ変を学ぶ意義は何だ」

浪人時代に、「あさきゆめみし」を読んだ。

 

 

絵の感じとストーリーに惹かれることはなかったけど、「源氏物語」を理解するには、とてもよかったことを覚えている。また、当時通っていた予備校に暴走族出身の名物先生がいて、その先生の話が面白すぎて、古典の勉強をやろうかな、と思っていた時期はあったけど、やっぱり「カ変を学意義」は分からなかった。

 

 

この時はじめて自分から、古典を読もうと思った。古典に親しむことはできた。でも、「カ変を学ぶ意義」は見出すことはできなかった。じゃあどうなんだろう。

 

昨日話していたもう一人の先生がこんなことを言っていた。

 

学ぶことって、楽しいし、かしこくなれる。

物理は物理の世界で、数学は数学の世界で、国語はことばを通して学ぶ。

最初は意味を感じられないかもしれないかけど、目の前の物事に本気になって取り組んだら、何か得られることがある。

試験に出ない?受験に関係ない?・・・なら安心して学ぼう!

だから、やれ(笑)

 

寝起きのわりには、自分にはどーんと腑に落ちた話でした。

「カ変を学ぶこと」自体に意味があるかどうか、じゃなくて「学ぶ」こと自体が尊いんだ、と。もちろん、高校生には「学ぶ」意義がすぐには分からないし、その後の人生で生きるかどうかなんて分からないけど、「学ぶ」ということ自体は価値がある、というのは当時の自分だったらすごく納得いく話だったろうな、と思います。

 

でもやっぱり、講義をダラダラ聞くより、『学び合い』がよかったな、とも切実に思いますけどね。

 

 

あ、その先生はもう一つ心に残ったことを言っていました。

「生徒がいないなら、自分は「先生」ではない。生徒あっての先生。

今は、ただ学校で働く人。」と言っていました。

確かに、自分も含めて学校の先生って、子どもたちがいてこそ本領発揮なんだよな、と。子どもたちがいる時はそんなこと思いもしなかったけど、

全国で少なからず同じように感じている方もいるだろうな、と思います。

 

 

ふう、他校種の方と話をするのもすごくいいな、と思いました。

Zoom学習会を企画してよかったです。いろんなつながりから学びを得られそう。今週は、上越の会も福岡の会もあるので、楽しみです。