#78 うまく言葉にしたい
今日は、これを思いっきり読み込みました。
働いている時は、どうもこのような本は読みにくいです。
前回のブログでも書いたけど、イメージができないと言葉が入ってこないし、
1日で読み切ろうとすると、焦って余計に内容が入ってこないから。
何日かかけてちょこちょこ読むより、一気に集中して読むほうが自分には合っているので、
もう今のような機会しか、このような本を読む時間はない気がします。
で、この本を読んでいて思ったことは
『学び合い』じゃん!!
何が、と言われると「うまく言葉にできない」のだけど、これは、『学び合い』だ。
ああ、だから「『学び合い』が溶け込んでいる」という表現を聞いたことがあったのか。
特に思ったのが新学習指導要領って、「学ぶとは何か」という学習者主体の研究を前提に考えられているって点。知っているようで、知らなかったんだけれど、子どもは(ヒト)は生まれながらに学んでいる。学び合っている。そういう本能を持っている。これって『学び合い』の「はいどうぞ」と同じ。「子どもは有能である」と同じ。そして、対話を通じて、誤った理解や、知らないことを随時アップデートしていく・・・うん、『学び合い』の授業中のそのもの。『学び合い』の授業中、子どもたちは、実に様々な学びを、より「自然」な「科学的」な行っていたってことに、気づく。
ヒトが学ぶことは、科学的に研究されていて、実証されているのに、それに反することを、学校は、教師は行っているなんて、なんて非科学的。医者がそれやったら、大問題でしょう・・・。ドリル学習もいわゆる規律も、すべて「非科学的」だから、ついていけない子どもたちが現れる・・・そりゃそうだ。子どもの学び、成長と反しているんだから。その「反している」ことについて来れた子だけが生き残っていく・・・なんて滅茶苦茶な。
『学び合い』の授業は特殊な授業、と考えている時期もあったし、いまだにそう思っている人もたくさんいるけど、実は「戻した」だけなのね。そして、それを「授業」に生かせるよう、
考え方と願いとして整理され、テクニックができた。
うーーん、ちゃんと読み直さないと間違っていることがたくさんありそうだけど、
自分の今の認識はこんな感じ。
ああ、ということはですよ、
対話のない
美術や音楽や体育のない
今の学校って、すんごく不自然な、というより非科学的で、教育の場とはいえないような
環境なんだろう・・・。コロナを言い訳にしたらいかんですね。