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『学び合い』はマシか?

Zoomの会が続いたので、ふりかえりです。

 

『学び合い』はマシ

 

『学び合い』はすごい

『学び合い』は最高

 

そういう声を聞くことがありますし、実際に私もそう思っていました。

しかし、『学び合い』を実践してきて、あくまでも『学び合い』は従来の授業よりは

「マシ」であり、完璧ではない、ということが分かってきました。

 

その「マシ」についてですが、

数名の、それも「できる」子が分かる、そのような子たちの声で進んでいく授業よりは

「マシ」ということで、『学び合い』がすぐれているというわけでもないし、従来型を軽蔑しているわけでもありません。

従来型の授業は、間違いなく多くの子、すくなくとも先生の話していることや周りの子が話していることが理解できない子にとっては全然分からない、つまらない授業です。残念ながら、従来型の授業をもとにした研究授業をみているとよく分かります。子どもの目がうつろになっていたり、参加しているとはいえない状態です。しかし、多くの先生は、そのような子たちの存在を見て見ぬ振りをして、板書がどうだ、発問がどうだ、あの子がこんなこと言った・・・

そのように捉えます。

 

私も過去そのような授業をしていて、同じような思考をしていました。今では考えられないですが、自分の授業についてこれない子の存在は授業すべてを否定することになるので、「見て見ぬ振り」をしていたと思います。

 

『学び合い』に出会い、実践をする中で「すべての子」を意識するようになりました。

そうすると、子どもによって学ぶスピードや、学び方が違うことに気づいてきました。

ここまで教えても分からないのか・・・と思うこともありました。

つまり、従来型だったら、どんなに先生の説明をわかりやすくしたり、工夫したりしても

「分からない」ままだったのです。だから、従来型の授業に比べると、より多くの子にとって

「分かる」可能性が高まるわけですから、「マシ」という表現を使っています。

 

「完璧ではなくマシ」というのは、「従来型をするなら、『学び合い』の方がいい」くらいなのであって、「『学び合い』が完璧」というわけではない、ということです。

『学び合い』がなぜ完璧ではないか、というと、従来型に合う子もいるわけであって、『学び合い』の方が苦手、合わないという子もいるということです。当たり前といえば当たり前なのですが、『学び合い』を実践するということは、クラスの子すべてが『学び合い』を強制されるわけですから、従来型を強制されるのと同じです。

 

しかし『学び合い』は自由度が高いので、『学び合い』をすることによって「人と関わる」ことは強制されません。人と関わることが苦手、嫌という子にとっては『学び合い』は合わないでしょうが、自分で選択できる、という面においては、「マシ」なんだと思います。

 

ですから、『学び合い』を実践するのは、

「なぜ先生は『学び合い』を選択するのか」

を確実に語れないといけないです。そうでなければ、アンチ『学び合い』派の子どもたちから

「従来型に戻してほしい」と言われます。アンチ『学び合い』派の子も時間をかけて納得してもらう、従来型と『学び合い』を比較して『学び合い』の方がメリットが多いということを伝える必要があるでしょう。

 

でも、すべての子が納得することなんてあり得ません。ですから常に「合わない子も付き合ってくれている」ということを忘れてはいけないですし、可能であれば、自分以外の先生の授業を受けたり、関わってもらう時間があるとなおよいと思います。

 

私の勤務校では、高学年から理科の専科があります。また、英語や家庭科などは別の先生が行うことがあります。そのような先生たちの話を聞いたり、授業をうけたりすることは、アンチ『学び合い』派の子たちにとっても、気分転換の時間なのです。そして、そのような先生たちから見る子どもの様子もまた異なってくるでしょう。

 

みんなで子どもたちを育てていく、というのが『学び合い』を実践する上でも大事ではないか、と思います。