おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

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『学び合い』を実践するということ「具体と抽象の往復」

 

「『学び合い』とは考え方です」

「『学び合い』とは一人も見捨てない教育です」

「『学び合い』は三つの観のことです」

 

『学び合い』を実践していると、そんな言葉をよく聞きます。

確かに「『学び合い』とは何か」と聞かれると、「教え合い」「学び合い」というように伝える時もあれば、「課題を全員達成を目指す」という時もあります。また、三つの観の話をすることもあります。

 

 第一は、「学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、 より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」であるという学校観。 

第二は、「子どもたちは有能である」という子ども観。 

第三は、「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れ ば学習)は子どもに任せるべきだ」という、授業観

 

「『学び合い』をとは何か」という問いに対する、おそらく「正確な」答えは、この三つの観と一つの願い(一人も見捨てない)だろう、と思います。

 

しかし、上述したように、「この3つの観です」なんて言われても、聞いている人は???でしょう。そりゃそうだ。抽象的です。

 

そこで、私を含めた「実践者」はこれを「具体化」することになります。

また、『学び合い』関連の本にも「具体化する上でのセオリー」が説明してあります。

 

ただ、その時点でもう、それらは、『学び合い』とは言えない一面もあると思います。

なぜなら、具体化した時点で、誰かしらの「解釈」が入っているため、もうその文脈でしか捉えることができないからです。つまり、私「おに先生」が具体化した時点で、「おに先生の『学び合い』」なのであり、もう『学び合い』の原型ではない、ということです。

 

そして、私たち実践者は、自分の具体化が本当に正しいのか、常に疑います。その際に必要なのが、「抽象化」です。すなわち、「観に戻る」ということです。

「一人も見捨てないってなんだろう」「子どもは有能ってなんだ」

そんなことを考え、問い続けます。当たり前ですが、その行為に終わりはありません。

 

たとえば、私が考える「子どもは有能」であるは、卒業式の練習を教師が行わせますが、

ある先生の「子どもは有能」は、卒業式の練習を子どもたちに行わせます。

もうこの時点でずいぶん「子どもは有能だ」のレベルが違うのです。

 

後者側の実践者からしたら、前者の『学び合い』は「本当に子どもを有能だ」と思っていない『学び合い』だと映っても仕方がないでしょう。そして前者の『学び合い』実践者からすると後者の実践は「すごい」「次元が違う」と思うわけです。

 

この例は極端な例ですが、『学び合い』が抽象的な「観」である以上、実践者による「具体化」の違いは起こりうることであり、そこに優劣はないはずです。そして、本当に『学び合い』を実践するというのは、上述した通り、具体と抽象の行き来だとするならば、それを可能にするのは「対話」しかなく、本や一方的な発表では伝わらない、と言えます。

 

おそらく、ベテランの『学び合い』実践者が、セミナー等で発表をしたがらないのは、このような理由ではないか、と私は捉えています。ご自身の『学び合い』が、発表することで、誤解されて捉えられること、自分の実践が『学び合い』の模範と捉えられること、それを懸念しているのではないか、と思います。

 

 

そのように考えると、私が2018年に行っていた「ビギナーズセミナー」は大きな勘違いを生む、会だったのではないか、と思いますし、私がずっと参加してきた『学び合い』の会は、本来の『学び合い』を実践する会、と思います。なぜなら前者は、私を含めた実践者がたくさんの実践発表を行うことで、「ビギナー」に「『学び合い』はこういうものだ」と認識させることになります。

 

一方で後者は、ひたすら対話を通して、具体的な実践から「観」に戻る行為を行うわけですから、『学び合い』を実践している、ということになります。

 

このように考えると、今流行りのclubhouseは、本来の『学び合い』実践につながる使い方ができるのはないか、と思います。というわけで、今日、clubhouseで『学び合い』の会を行ってみます。

 

 

参考文献

 

具体と抽象

具体と抽象

  • 作者:細谷 功
  • 発売日: 2014/12/01
  • メディア: Kindle版