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教育観を言葉にしてみよう

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「どんな子どもを育てたいのか」

「どんな授業がしたいのか」

「『学び合い』で何がしたいのか」

 

そのような問いに自分なりの答えを出そうと試行錯誤してきました。

そして今年度『学び合い』ができないことをきっかけに、自分が「どんな授業をしたのか」が見えてきました。また、今まで『学び合い』によって、何を目指してきたのか、わかってきました。

 

そして先日、とある方の話を聞き、自分の中でモヤモヤしていたものが、一本の線になったように思い、あわててノートに書きました。

 

まず、『学び合い』について。

私が初めて『学び合い』に出会い、それを続けてきたのは

 

「全員が分かるようになってほしい」と思っていたからだと思います。

 

いや、それはどんな先生でも思うでしょう、とツッコミたくなるところです。

確かに多くの先生は、「全員が分かる」ように授業をしていると思いますし、教育活動をしていると思います。残念ながら、「全員が分かる」ことはそんなに簡単ではなく、気づかなかったり、何かのせいにしたり、見て見ぬふりをしていると思います。そうでなければ、日々の授業は成り立つはずありません。

 

教員3年目の時に、「全員が分かる授業ができていない」「全員が満足するクラスを作れていない」ボヤっとそういうことを思っていました。プライドが高かったのか、それを認めたくない自分がいる一方で、自分の力の限界を感じてもいました。

そんな時に出会ったのが『学び合い』

 

はじめは、交流学習のようなとらえ方でしたが、だんだん「子ども同士のほうが分かる?」と思うようになり、最終的には、教師がでしゃばるよりも、子ども同士で学び合ったほうがいい、ということが分かりました。

 

『学び合い』に出会い、そのように思えたのは、必然か偶然かわかりませんが、

もともと『学び合い』は「すべての子が学習内容を分かる授業」を研究してうまれたものだそうです。言葉をかえれば、

 

『学び合い』とは子ども全員の学習が成立することを目標にした、授業の組み立て方

 

といえるそうです。

そして、不要なものを削いで削いでまとめたものが、三つの観と一つの願い、ということだそうです。

 

私は、数少ない本と手引書を頼りに実践を行い、時間はかかりましたが、『学び合い』の本質に向かおうとしていたんだと思います。

 

さて、『学び合い』を実践するにあたって、「セオリー」はありますが、学校の教師の仕事に満遍なく対応できるわけではありません(突き詰めれば対応できるのでしょうが)例えば、「一人も見捨てない」を語る際に、何をどのように語るかは、その先生、目の前の子どもたちによって違います。そうなると結局「先生はどうしたいのか」がその語りにかかわってくるんだと思います。

 

子どもたちを見ながら、課題を考え、語りを考え、様々な教育活動を行っていく上で、

何度も何度も考えるわけです「先生はどうしたいのか」と。曖昧なことでも、「曖昧でないように語る」のが先生のスキルです。自分が言っていることと、自分がやっていることがズレていたら、子どもたちに見透かされてしまいます。

 

 

例えば、小学校の教師でしたら、「朝の会」「帰りの会」をする先生が多いでしょう。

「係活動」や「清掃活動」もあるでしょうし、「宿題」や「学級通信」もあるでしょう。その一つ一つが『学び合い』の本にのっているわけはないですし、セオリーもありません。ですから、「自分がどうしたいか」を考えている癖がつくと、すべての教育活動に意味があり、「先生はどうしたいか」が含まれてくると思います。

 

 

10年近く小学校の教師を続けてきて、自分なりに言葉にしてみると、

「私がしたい教育活動」は、「自律・自立」に集約されると思います。

 

もう少し言葉を増やせば、

自律した学び手、すなわち「自分に合った学びを見つけ、かしこく学びを続けること」

自立した生き方、すなわち「自他のことを知ること。自分で考え、決めて、行動できること。生きる知恵を得ること。他者の力を借り、周りと折り合いをつけながら生きること」と考えています。

 

その根拠は、といえば「根拠、俺」なのですが、できる限り、これから先の未来を考え、どんな時代、どんな社会になっても生きていく力を模索することが必要だと思います。

 

このように考えると、私の目指している教育は、「全員が分かる」『学び合い』よりも先に進んでいると思います。しかし『学び合い』から離れているわけではありません。

やっぱり、自分のかかわる子たちは、どの子も「わかる」ようになってほしいし、「楽しい学校生活」を送ってほしい。これから先の人生もよりよく生きてほしい。

だから私は『学び合い』実践者であり続けると思います。

 

 

さて、長くなったので今回はこれくらいにしておきますが、

次回は、ICTとどう向き合っていくか、について考えたいと思います。