この数ヶ月、いや今年に入ってからずっと考えてきたことだ。
ICTが学校現場に入ってきた上で、どんな教育を目指せばいいか。
時代が変わる!だからその時代に合う力を!と思っていた時もあった。
でも、違和感に後から気づいた。「本当に数年後に端末使う力って役に立つ保証あんの?」
そりゃそうだ。何度も聞いた「激変の時代」もう数年後には、タイピングすら過去の産物になっているかもしれないんだ。
そしてもう一つ違和感。「教室にいる子すべてが端末を使いこなす必要あるの?」
と。これは学習指導要領をすべての子に求める必要あるの?に似ているというか同じ。
極端な話、Youtuberになる人、サラリーマンになる人、スポーツ選手になる人、
それぞれ求められる力違う。学習指導要領が求めている力って「万能な人」ぽいけど、
結局必要のないものだった大いにある。それと同じで端末を活用する仕事に就く人もいれば、
就かない人もいる。「全員に求める必要」は本当はないはずだ。
結局これって何なんだろう・・・とモヤモヤしていた矢先、
最近読んだ本で、分かった気がした。
そうか、高齢化社会。生産年齢人口が一気に減る。
だとしたら、今よりも少ない人間で、国を前進させていかないといけない。
だとしたら、テクノロジーに生かせる部分は任せて、効率よく仕事をしていかないといけない。そういう人材を育てないといけない。できるだけ早くに。
まあ、そう言うことなんだろうな、と思います。
もちろん、それはわかります。そういう人たち「も」いる。
だけど、そういう人たちばかりではない。
ということは、一人一台端末をわたして、「個別最適化」って言ってんのは、
今の学校教育で無駄な時間を使いすぎている優秀な子を、どんどん自由にして学ばせて
勉強面ではちょっと難しい子には、新たな道を見つけてあげて、いこうってところかしら。
平等意識の強い学校現場ではあまり受け入れられない考え方かもしれないけど、僕は本当の意味で「個別最適」「多様化」だと思うからありだなと思う。そうか、一人一台端末の本当の目的は、学校で無駄な時間を過ごしている、優秀予備軍を開放するためにある。と考えるのも納得できる。
だ け ど ね
そんなのでいいの?
みんな違ってどうでもいい、なんて学校。
来る意味ないじゃん。
一人一台端末わたして、あとは自由にやっている子がクラスに何人かいる。
それで、学校に来る意味あるの?
そこに、この言葉が来るんだろうね。
学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、 より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場
(『学び合い』の学校観)
一人でどんどん学んでいける子に、学校に来る意義を学んでもらわないと、社会に出た時に、どんどん「できない人」をコケ落としていくんじゃないかなと思う。みんなが幸せになったほうが、自分も得そう思えるようにしたい。そうじゃなければ、自分も見捨てられしまう。
一人でなかなか学ぶことができない子に、AIにサポートしてもらうんじゃなくて、「教えて」と言ってサポートしてもらえる経験をしてほしい。「誰かに助けてもらった」という経験が、
つながっていって、誰かを助けていくのではないかと思う。
そんな教育がしたい。
ICT活用推進役として。