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〜心に火を〜「学びを止めるな」というけれど

Facebookで反響があったので、こちらに加筆修正をして投稿します。

 

 

「学びを止めるな」「学びを保証する」

この二つの言葉がぐるぐる渦巻く今日この頃。

僕はこれらの言葉を「学び続ける人へ」「全員が分かる」

という言葉で、数年前から試行錯誤してきた。

 

もちろん、いまだなお「学び」とは何か、自信を持って語れないし、「分かる」とは何かを語れない。でも、ずっと目指してきた。子どもたちの姿を成長を見ながら、つかみそうで、つかめない。だからこそ、簡単に達成できるものでもない、と思っている。

 

なのに、「学びを止めるな」「学びを保証する」がずいぶん簡単に使われているように思う。端末を配布することが「学びを止めない」ことで、学校で先生が行っている授業を配信することが「学びを保証する」かのように使われている気がする。

 

一年前、僕はいつものように「学び続ける」こと「教科書の内容を全員が理解できる」ことを目指していた。でも簡単じゃなかった。それまで「子ども同士の関わり」を前提にしていたからだ。僕の授業から、それを削いだ瞬間、それまで可能にしていたことが尽く達成できなくなった。相当試行錯誤したけどダメだった。やはり、30数人の子たちすべての「わかる」を網羅するなんて授業を教師一人でできるはずなく、僕の「全員が理解できる」を目指した授業は「関わり」ありきなんだろうな、と思った。

 

それでも落ち込んでいるわけにはいかない。数ヶ月後にせまる一人一台端末導入に向けて、一人ひとりに学び方や学ぶ内容の裁量を持たせられるよう、単元や学習ごとにまとめて課題を配布するようにしていた。幸い、僕が授業に来る日に欠席してしまった子や諸事情で学校にこれない子も学び続けることができた。僕にとって「学びを保証する」ことの「最低限」は、学校に来ても来れなくてもほぼ同水準の学びの機会を提供することなんだ、とこの時、理解したように思う。

 

今、学校に迫られているのは、極端に言えば「今までの教育活動を強引に続ける」か「やめる」かの二択なんだろうな、と思う。昨年はハード面が整備されず、後者を選ぶしかなかったけど、今年はハード面が整備されている。だから、前者を選ぶしかないんだけど、それが何十分も画面越しに見にくい黒板を見せ続けたり、雑音入り混じる教室の音を流し続けることになり、そして「学びを保証する」と説明されている。本当に「学びを保証する」ために、「今までの教育活動をかえる」という選択肢はない、気がする。

 

今の僕には、3つ目の選択肢を提案することも実践することもできない。1つ目の選択肢「今までの教育活動を強引に続ける」ことに加担するしかない。でも仕方がない。今に始まったことじゃないから。そしてきっといつかチャンスは来ると思って過ごしていきたい。それまでは、仮面をかぶっておく。言っていることとやっていることが一致しないのは苦しいけれど、心の中に火を燃やしながら「やってやる」と思っている。

 


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