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全員が分かる①

教員時代「全員がー」にこだわってきました。

そういう想いで教育活動にあたっている方は多いのではないかと思います。

 

教員になりたての頃は「全員が発表」をよく目標にしていました。

ネームプレートを使って、全員一回は授業中に発表することをさせたり、

なかなか手が挙がらない子が発表できるように、工夫をしたりしました。

 

それから「全員が分かる」ことを目標にして、授業づくりを行うようになっていきました。

算数の授業だったら、既習事項を確認し、問題から見通しをたて、めあてをつくり、自力解決を行い、交流する。

演習問題を行って、まとめを行うという「授業の型」を覚え、いかに子どもたちの「差」を埋めるか注力してきました。

 

それでも埋まらない「差」は給食時間や休み時間、放課後を使って埋め合わせをしました。

いずれにしても「全員が分かる」ことに一生懸命になっていたからだと思います。

 

しかし、その理想を実現することはそんなに簡単なことではありませんでした。

学校は、教室はいろんなことが起こります。まともに授業が進行しなかったり、休み時間が過ごせないこともあったりします。

だから、「授業以外の時間に埋め合わせる」ということは現実的ではないことがだんだんわかってきました。

ちなみに後から気づいたのですが、若いということで校務もそんなになく、独り身で時間に余裕があったからこそできた、とも思います。

 

やはり「全員が分かる」授業を目指すことが大事だと考え、セミナーにでかけたり、本を読んだりして学びました。

職員室で居残りをしている先輩に声をかけて、質問したりすることもありました。

いいなと思うことは授業に取り入れて、試行錯誤の日々でした。

 

そのように「全員が分かる」授業を目指していると、子どもたちの態度が気になってきました。

私語をしている、書くのが遅い、教師の話を理解していない・・・

そのような子どもの態度が気になって仕方なく、つい言葉にしてしまうこともありました。

今考えれば、本末転倒ですね。

 

ただ、当時は頑張っている自分に酔っていたのでしょう。

子どもたちが「先生の授業わかりやすい」と言ってくれること、「しっかり授業しているね」と周りから言われることが

何よりも自分の自信を支えていて「全員が分かる授業をしている」と自分に思いこませようとしていました。

 

その奢りは色々な形で跳ね返ってきました。

詳しくは書けませんが、天狗になっていたんだと思います。

 

それから1年ちょっと。衝撃的な出会いをします。

「先生の授業だりい」

この子の言葉で、僕がずっとモヤモヤしていたことがはっきりしました。

「全員が分かる」ことを目指していたのではなくて、「全員が分かることを目指していること」が目標になっていたことを。

主語が、ベクトルが完全に教師自身、自分自身であったんです。

 

 

つづく