コロナ禍になり、担任をはずれ、関わりが制限されるようになり、
私のやってきたことは、ほとんどできないようになりました。
その一方で私が大きく関わるようになってきたのが、ICTでした。
僕は、ICTを通して今までやってきたことを行おうとしてきました。
さらに、他人にICTの活用を伝えることも行うようになりました。
そこで考えたのが、「ICTを通じて、子どもたちがよりよく学び、よりよい人生を送ることができる」ことを目標にするでした。
しかし現実は、私が数年前にこだわり、何年もかけて外してきたこととの対峙でした。
こんなことをやっても、子どもたち一人ひとりは学ぶようにはならない。よりよい人生を送ることはできない。
自分が出会ってきた子どもたちの様子がちらつき、他の人の実践に対して感じるようになりました。
また、何より違和感を持ったのが文科省などの文書。
仕事柄、中教審答申をはじめ、多くの公文書を読むようになりましたが、そこで見かけるようになったのが
「全員が分かる」「一人ひとりのニーズにあった適切・効果的な指導」「一人も取り残さない」という言葉の数々でした。
はじめは「あ、自分が目標にしてきた言葉がたくさんあるぞ」とおもっていましたが、繰り返しそれらの言葉に出会い、文書をよく読むたびに
思うようになりました。
「これいったい、誰がどうやって実現することを想定しているの」
微妙にぼかしているのですが、教員個人個人とも読めます。もしそうだとしたら、大苦笑いです。
私が数年かけて、何度も何度も試行錯誤して、勉強して、諦めきれなかった「全員分かる」が教員個人で目指すべきだと。
教師が教えるよりも、子ども同士で教え合った方が、分かるしテストの点数もあがるという事実とはかけ離れていること。
ああ、同じ言葉で書かれた理想でも、実現不可能なものは理想でも理念でもなく「絵に描いた餅」です。
容易ではないけれど、実現可能、いや実現可能に近づくものこそ、採用すべきことだと思います。
その経験が自分にはある。だからこそ、簡単に述べられるていることに、違和感というか怒りまで湧いてきました。
残念なことに、実現不可能な理想は、簡単に使われ、拡大解釈をされたり、恣意的に使われたりします。
どうみても子どもたちは「わかっていない」のに、それが無視される。
どうみても、数名の子たちしか学んでいないのに、それ以外が無視される。
あの時葛藤した自分が乗り越えられたものが、簡単に目の前に現れるたびに、悲しい気持ちになります。
仕方ないのか・・・・
そう思う日々がありました。
それに合わせている自分がいることも感じるようになりました。
しかし、やっぱりそうではいけない。
実現不可能な理想に架け橋を作っていかないと。
誰も想定できないのなら、それを具現化していかないと。
そう思うようになりました。
そのためには、微々たることですが、公文書を読み込み、必要な部分を引用し、具体的に話す必要があります。
すなわち解釈をかえていくということです。
それが、今の僕にできること、やるべきことだということがわかってきました。
幸い、それができる時間の余裕があります。そして、その第一弾がこのブログです。
どんな場所、どんな立場になっても信念は捨てたくない。そう思います。