中学校の先生方の話を聞く機会がありました。
話を聞く中で、小学校教員の自分には興味深い点がありました。
「○○科(教科名)はーーーが大事だと考えています」
「△△科の学びはーーーとすることが多いです」
と各教科の「学ぶべきこと」や、「学び方」をまず話す方が多かったです。
教科担当制の中学校だから当然といえば当然ですが、小学校ではそんなに聞く言葉では
なかったので、「中学校ではそう言うのか」と思いました。きっと中学校での「共通言語」なんだろうな、と思います。
もちろん、小学校でも各教科の「専門」と言われる方がいて、その方々は「◯◯ではー」という言い方をすることもあるので、皆無ではないのですが少ないように思います。
さて、その「◯◯科はー」に対して講師の先生は何と言ったかというと次のような趣旨でした。
「○○科(教科名)はーーーが大事だとおっしゃっていましたが、それってすべての子にとって必要ですか」
「△△科の学びはーーーとおっしゃっていますが、先生が受験勉強の時にそのような方法を強いられたらやりにくくなかったですか」
子どもが関心を抱く学習内容や、子どもに合った学習方法は、子ども自身しか分からないのであって、子どもが見つけ出すしかない。教師がそれを強制した途端、意欲も質も落ちるということなんだろうと思いますが、
この言葉を聞いた先生たちは果たして納得できたのだろうか、と思いました。
なぜなら、多くの教師は「教科ならではを教えたい」「子どもが分かるようにしたい」と願っていると思うからです。「これこそ教師の仕事」「自分の生きがい・やりがい」と感じている部分でもあるのではないか、と思います。だからそれが、一部の子どもたちに興味のないことを聞かせることにつながったり、必要以上に詳しい学習プリントを作成することになるとは思いたくないと思います。
僕自身も、『学び合い』を実践し、『学び合い』関連の本を読みながらも「教科ならではを教えたい」「子どもが分かるようにしたい」という気持ちを持っていました。だから、講師の先生が言うことにすぐに納得できないだろうな、と思いました。もちろん、講師の先生も「お気持ちはわかります」と何度も言っていました。でも、あえて上記のことを言い続けていました。きっと、この件については納得してもらおうと思っていないと思います。
ただ僕は、ある出来事をきっかけにその「教科ならではを教えたい」「自分の指導で子どもが分かるようにしたい」という考えを捨てることになります。そして「教科の見方・考え方」「教科の本質」「教科の特性」とかいう言葉に惑わされないようになりました。教科によって学ぶことや学び方は違うのは承知しつつも、基本的には「全員がわかる」を求め、テストの点数をあげる、これを優先しました。時々「教えたい」という気持ちが出てくるのを自覚しつつ、あえてそれを捨てる。慣れてくれば大したことないのですが、時々上記のようなやりとりを見聞きすると「ああやっぱりそこは難しいんだな」と思わされます。
『学び合い』を実践し、自分の考え方を変えていくのは、難儀です。
特に「教師はーあるべき」の話は特に難しい、そう思います。
だから、焦らなくていい。じっくり実践を積み重ねながら、子どもの学びを主におきながら
気づいていけばいいと思います。