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『学び合い』とは を整理してみた。

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『学び合い』とは?

 

意外にも答えにくい質問です。長年実践しているのに・・・

 

『学び合い』とは・・・・な授業です。

『学び合い』とは・・・・な教育理論です。

『学び合い』とは・・・・な考え方です。

 

実践者によってこのような言い方がいくつかあり、いったいどれが正しいのか分かりにくい部分がある、と感じています。提唱している西川先生も少しずつですが、説明が変わってきています。実際、実践している人たちは、このことについて、そんなにこだわっていないのかもしれませんが、この私はそういうのが嫌です。はっきりさせたい。

 

「はっきりさせたい」という気持ちは、過去に「『学び合い』はじめの5冊に何が書いているのか」をすべて網羅するという謎の行動力につながったこともあります。それに似ています。

 

というわけで、『学び合い』の提唱者である西川純先生や、『学び合い』を実践してきた先生たちが本などでどのように説明しているか、できる限り調べて、紹介したいと思います。

 

  1. 「三つの観」
  2. 「一つの願い」と「二つの観」そして具体的な方法
  3. 「一人も見捨てない」
  4. 「一生涯の幸せ」

 

 

三つの観

私が読んだことのある『学び合い』関連の書籍等で、一番古いものが平成24年版「『学び合い』の手引き書」です。そこにはこのように説明されています。

 

『学び合い』の基本的な考え方は3つです。教育の多くの建前論とは違って、この考え方が当人の腑に落ちているか、いないかが『学び合い』の成否に決定的に影響します。 

 

第一は、「学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、 より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」であるという学校観。

第二は、「子どもたちは有能である」という子ども観。

第三は、「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れ

ば学習)は子どもに任せるべきだ」という、授業観。

 

つまり、『学び合い』とは?という答えは、これら3つの観のこと、と説明すればひとまず正解ということになります。ここで補足をしないといけないのですが、西川先生は最近では、これらの観のことを次のように説明しています。

 

『学び合い』は一つの願いと、二つの観によって構成されます。

 まずは願いです。その願いとは、「子どもたちが一人も見捨てられない社会・教育を実現することによって一生涯の幸せ(つまり不幸でない)であることを実現する」ことです。これを実現するには一人の教師では無理です。

 一人一人の子どもは何を獲得したら幸せになるでしょうか?

 それが学校観です。つまり「多様な人と折り合いをつけて自ら課題を解決することを学び、周りの人は同僚であることを実感する」ことです。これを獲得できる人は幸せになるでしょう。しかし、すべての人が自力で獲得できるわけではない。自力で解決できる人は多くはない。例えば学校レベルで言えば、自力で一定以上の課題を解決できるのは一部の子どもです。その他の子どもが獲得できない原因は多種多様です。そして、多くは膨大な対話が必要です。しかし、物理的に教師がすべてに対応できない。

 だから子供観が必要です。つまり「子どもたちは有能である」と考えるのです。一人一人の子どもを別々に見れば能力はかなり低い。しかし、それらが有機的に結びついた「子どもたち」はかなり有能です。最も簡単な説明は、どんな子どもも1日は24時間です。つまり、クラスの子どもは一人の教師の三十倍の時間をかけられるのです。以上から生まれて、洗練されたのが『学び合い』の授業方法です。つまり、願い、二つの観と完全に一対一対応するのです。

(20181124「西川純メモ」より)

 

一つの願いと二つの観、そして具体的な方法

 

『学び合い』は一つの願いと、二つの観によって構成されます。

あれ、一つ減ってない?そして願い?

西川先生も時が経つにつれ、『学び合い』に対する説明が少しずつ整理されています。特にここで特徴的なのが、「授業観」がなくなっていることです

これについて、西川先生は以下のようにブログで説明しています。

 

私は2014年以降は授業観に関して発信していません。そして、今は「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任せるべきだ」という授業観は私の中から消え去りました。

(「西川純メモ」より)

 

これについて、もう少し詳しく説明している記事があります。

 

個別最適化する社会において、一人一人の目標は異なります。当然、評価も異なります。そして、環境すらも異なります。目標を設定し、評価し、環境を整備するのは教師ではなく、学習者当人なのです。では、教師は何をすべきでしょうか?子ども一人一人が、目標を設定し、評価し、環境を整備できるように、今後の社会のヴィジョンを持たせることです。それを全員に保証するには、集団を形成することです。そのためにも、ヴィジョンが必要なのです。

(2019617「西川純」メモ)

 

『学び合い』の授業観では、目標の設定、評価、環境の整備は教師の仕事としていますが、あくまでそれは学習指導要領に縛らられた学校教育、授業におけるもので、これからの学校、子どもたちがこれから生きていく社会では、学習者自体が目標を設定し、評価し、環境を整備できないといけない。そして、教師の仕事は、子どもたちが目標が設定できるよう、授業レベル以上のヴィジョンを設定しろ、ということなんですね。確かにこの説明を読むと、授業観が消えてしまうのは納得です。

 

2014年以降に出版された本を読むと確かにこのように書いています。

 

『学び合い』の基本的な考え方は2つです。教育の多くの建前論とは違って、この考え方が当人の腑に落ちているか、いないかが『学び合い』の成否に決定的に影響します。 

第一は、「学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、 より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」であるという学校観。

第二は、「子どもたちは有能である」という子ども観です。

このたった2つの考えから『学び合い』の授業は導かれます。

 

つまり、現在では『学び合い』とは、一つの願いと、二つの観 ということになります。

なんとシンプル。「それだけ?」と思う方もいるでしょう。シンプルがゆえに、どのようにこれらを具体化するかは、教師に委ねられている、ともいえるのですが、『学び合い』とは一体なんなのか、分からなくなる方もいるでしょう。そこで、具体例やテクニックが本などでたくさん公開されてきました。そのさきがけとなったのがこの本です。

 

『学び合い』は、

①子どもに課題を与える

②子ども同士で教え合って、課題を達成してもらう

③「全員がわかる」が目標。それができたかを評価

という方法で成り立っています。

 

これは授業場面に限定された『学び合い』の実践なのですが、観よりもイメージしやすい分、

ここから、イメージをつくり、『学び合い』を実践する人が増えてきたと思います。私自身もその1人です。ただそうすると、元々は「一つの願いと、二つの観」なのに、このような具体例で示したような実践が「『学び合い』である」と示しているようなものです。分かりやすくなった分、教師の裁量がなくなった面もあります。

 

同じようなことは、次の本でも書かれています。

これで救われる方がいる反面、混乱する人も出てきました。

救われた方は、『学び合い』の考え方に納得しつつも『学び合い』の授業のイメージできなかった方です。『学び合い』の考え方を理解し納得した上に、方向性を示してもらったことで授業がやりやすくなってきたことでしょう。混乱する人は、試行錯誤しながら自分なりの『学び合い』を模索してきた方です。示されたやり方(方法)でなければ、『学び合い』の授業とは言えないのかということです。この本が出る前から言われていた「はいどうぞ、の『学び合い』」しか『学び合い』ではないのではないか、ということです。

 

確かに私自身も、「自分の実践は『学び合い』なのか?」と思うことが何度もありました。

『学び合い』とは?の問いは私自身がこれまで感じてきたことでもあります。

それについて、西川先生は次のように説明しています。

 

一人で『学び合い』を実践している人から、「私の『学び合い』は本当の『学び合い』なのでしょうか?」と聞かれることは少なくありません。でも、家元制度ではないのですから、誰かによって認定されるものではなく、自分で判断すればいいのです。分かりやすい判断基準は以下の通りです。

 

1) 一人も見捨てるなと子どもに求めているか?

 

これは実践が進むと「一人も見捨てないのは得だ」となります。そして、私の本だったら「学歴の経済学」、「アクティブ・ラーニング入門」、「サバイバル・アクティブ・ラーニング入門」、「2020年激変する大学受験!」で書いているような今後の社会のことを語ります。

 

2) 教科の内容を相対的に見られます


『学び合い』は面白い授業、分かりやすい授業を目指しているのではなく、子どもの幸せを目指しています。だから、その教科の蘊奥・奥義を教えることを目指しているのではありません。「その教科の蘊奥・奥義を教えること」を全面否定はしませんが、一人残らず全員の幸せを願うならば、「その教科の蘊奥・奥義を教えること」を持ち出しません。


3) 子どもに任せる時間が長い


子どもに任せる時間は、子どもをどれだけ信頼しているかと比例します。これは自分の限界を理解しなければなりません。そのためには、子どもには多様性があり、全員がその子にあった指導を求めていることを理解しなければなりません。それが理解出来れば自分には無理だと理解出来ます。「でも、子どもに出来るだろうか?」という不安は、『学び合い』は2割の学力的にも高い子どもを納得させ、その子達が6割の子どもを動かし、8割の子どもが残りの2割の子どもを動かすという構造を理解しなければなりません。ただし、校長からの命令で出来ない場合は除外されます。その状況で出来る範囲のことをやればいいのです。

以上は、願い、学校観、子ども観に対応するものです。
『学び合い』は対象と期間によって多様です。

 

一つの願いと二つの観を自分なりに解釈し、実践

実践していることが一つの願いと二つの観に当てはまるのか、検討
 
これが『学び合い』を実践する上で肝心なこととなります。
誰も「これは『学び合い』である」という実践を見せることはできないし、
「これは『学び合い』で、これは『学び合い』ではない」と明確に分けられるものでもない。
さらには、「二つの観」もシンプルがゆえに、解釈が難しい。
 
それがわかるのが次の記事です。
西川先生は、学校観について次のようにブログで説明しています。
 
 「多様な人と折り合いをつけ自らの課題を解決すること」ができる子どもを育てることが学校教育の目的であると語るのが『学び合い』の学校観です。このたった24文字にどれほどの情報量があるか。
 
 例えば、多様と一言に言いますが、二十年以上の『学び合い』研究の中でそれは深化しています。最初は健常児、それがグレーゾーンの子どもも含め、特別支援学級の子どもも含め、ありとあらゆるタイプの知的障害、情緒障害を含めています。そして、現在では、保護者集団、地域集団さえも包含しています。
 
 しかし、多くの場合は、無意識に一部の子どもを除外しています。現状の授業では、そうしない限り心を病んでしまうからです。そして、知的な障害を持つ子ども以外全員が難しい課題を解けたとき、思わず「みんなできたね」と言ってしまうのです。心は言葉に現れ、ボディランゲージに現れます。
 
 折り合いという言葉も意味深い。仲良くなることを求めていません。そして、全ての人とつきあえることも求めていないのです。あくまでも集団の中での凝縮力が大事なのです。これは良い職場の人間関係と同じです。腹の中でどうおもっているか、また、実際に話さない人が職場にいてもいいのです。集団としてパフォーマンスを高められる行動を一人一人が出来ればいい。
 
 自らの課題を解決、という言葉も意味深い。なぜなら、これは「徳」ではなく「得」で動くべきだと語っているのです。だから、子どもに損得勘定で語ることが出来ます。おそらく、多くの教師がやっていないことだし、それはいけないことだと思っていることだと思います。しかし、そうしない限り、中長期にわたって行動を維持することは出来ません。滅私奉公出来るのはせいぜい1ヶ月ぐらいです。
ざっと考えても24文字の言葉には以上のものが含まれています。そして、それ以上のものを膨大な学術論文が支えているのです。さらに言えば、諸般の事情で論文に出来ない学術データからもです
(西川純のメモ)
 
短い文、そこに含まれる解釈はかなり多くなるんですね。要するに、シンプルな分、解釈が難しい。だからこそその解釈がブレているかも分かりづらい。『学び合い』とは が答えにくい質問と最初に書いたのはそういうわけなのです。

 

「一人も見捨てない」という願い

 

ではここで「一つの願い」について触れたいと思います。

この「願い」について、西川先生は上に引用したように、

「子どもたちが一人も見捨てられない社会・教育を実現することによって一生涯の幸せ(つまり不幸でない)であることを実現する」

と説明しています。

この「願い」ですが、いくつかの書籍の中で触れられているのですが、微妙にニュアンスが違います。

 

以下、紹介します。

 

2017301

 

『学び合い』は、一人も見捨てない教育を実現しようとして生まれたものです。

(中略)『学び合い』では、子どもたちに「一人も見捨てないことは得である」ことを繰り返し語り、実現させる教育です。

 

2015220

『学び合い』とは、額面どおり一人も見捨てないことを目指した教育の考え方です。

 

2017501

 

『学び合い』は単なる授業方法ではありません。「一人も見捨てない」という強い思いと、それを実現するための方法論です。

 

この3冊からわかるように、若干使われている言葉は違いますが、

『学び合い』は「一人も見捨てない」ことを目指す、実現する ための方法論・考え方と説明されています。『学び合い』を実践している方なら「一人も見捨てない」はおなじみですね。

 

この本では、こうも書かれています。

 

20161020

一人も見捨てられない共生社会の実現に向けた、子どもたちがお互いに一人も見捨てられない集団づくりの教育の実践が『学び合い』です。

 

「一人も見捨てられない共生社会」「一人も見捨てられない集団づくり」と説明していますね。

 

一生涯の幸せ

 

さて、ここまで色々な本から引用して「一人も見捨てない」をみてきました。

でも読者のみなさん、ちょっと気づきませんか。最初に引用した文章と若干違うということを。もう一度引用します。

 

『学び合い』は一つの願いと、二つの観によって構成されます。

 まずは願いです。その願いとは、「子どもたちが一人も見捨てられない社会・教育を実現することによって一生涯の幸せ(つまり不幸でない)であることを実現する

 

そう、『学び合い』の究極の目標は、「子どもの一生涯の幸せ」なんです。

つまり「一人も見捨てない」は確かに目指すべきこと、願いなのですが、あくまでも

「一生涯の幸せ」のための目標なのです。

 

一番最近の記事でもさらりと西川先生は書いています。

 

『学び合い』は面白い授業、分かりやすい授業を目指すのではなく、子ども達の一生涯の幸せを保障する教育実践です

(20211202西川純のメモ)

 

そして、「一人も見捨てない」については、次のようにも書いています。

 

『学び合い』の最大・最強のテクニックは何でしょうか?

 私は「一人も見捨てない」だと思っています。まあ、正確に言えば、「一人も見捨てないことは自分にとって得である」であり、もっと正確に言えば、「一人も見捨てないことを諦めないことは自分にとって得である」です。もっともっと正確に言えば、「一人も見捨てないことを掲げ続けることは自分にとって得である」なのです。

 さて、何故、「一人も見捨てない」が最大・最強のテクニックなのでしょうか?

 『学び合い』が機能するためには、集団の2割(その多くは成績上位者)が馬車馬のように頭と体を動かしてくれるからです。その子達は「得」だから頑張ってくれるのです。もし、教師自身がそれを信じられないとしたら、その子達が動くわけ無い。

 今まで色々な入門者と接してきましたが、そこが分かれ目です。もちろん、全ての人が最初から「一人も見捨てない」を信じ切れるか、それも事実と論理で信じられるとは思いません。しかし、「一人も見捨てない」を素敵であると思う人はいます。「一人も見捨てない」は教師の義務だと踏ん張れる人はいます。そして、自分の能力はこの程度だから「一人も見捨てない」を掲げた方が「マシ」、「かなりマシ」と理解出来る人はいます。

 「一人も見捨てない」を前面に出さなくても、即ち、「得」を語らなくても、2割の子どもが不満に思わせないような授業力のある方は、もしかしたら『学び合い』を成立させられるかも知れません(かなり危ういですが)。一般の教師がそれが出来るとは思えません。

一人も見捨てないは何か、崇高な願いというよりも「テクニック」とすること。

なにせ、教師一人の力の限界に気づき、子どもに任せて信じた方が、可能性があがるから。それはテクニックとも言える。もちろん、達成できないかもしれない。

 

(20181230「西川純のメモ」)

 

僕はこの記事を読んだ時に衝撃を受けました。

「え、テクニックなの?」と

その時は、これ以上のことを感じなかったのですが、今になってやっと分かったことがあります。「一人も見捨てない」は願いであり、目標であり、テクニックなのだ、ということ。

本ではほとんどが「願い」「目標」として語られているのに、実は「テクニック」の要素もあったということが、私をずっと混乱させてきた要因でした。そして「テクニック」と聞いてから、ものすごく安心しました。なぜなら私にとって「一人も見捨てない」にこだわることはしんどいからです。

 

 

目指したいのは分かります。

額面通り、一人も見捨てたくなんてないんです。

でも、現実を知ります。一人を見捨ててしまうことを。

それがとにかく苦しい。わかっているのに、何もできない。

だから時々、「なんで見捨てるんだ!」って子どもに思っていまうし、

「自分は一人も見捨てない」を本気で願えないダメ実践者だ、なんて思ったこともあります。

でも、心の中で「一人も見捨てない」を願いつつ、テクニックとして使うのは、

ハードルが一気に下がります。

「一人も見捨てない方が、みんなにとって得だよ」と

一つの生き方として提案するという捉え方ができるからです。

ただ、今まで様々な子どもたちに実践を行なってきて経験してきたことですが

「一人も見捨てない」のパワーはすごいです。

僕は、学ぶ、学び合う、つながるための「エンジン」と思っています。

そして、子どもたちの幸せを願う。これなら、多くの先生たちに共感してもらうことが

できると思います。

 

まとめ

さて、「『学び合い』とは」を整理するためにだいぶ時間をかけて書きました。

要するに『学び合い』とは西川純教授が提唱する、「一人も見捨てないことを目指し、子どもの一生涯の幸せを保障することを目指した、二つの観を基本とした方法論、考え方、授業実践というわけです。シンプルがゆえに、実践をしながら「子どもに何をどう語ればいいだろうか」という迷いが起こるたびに、「『学び合い』とは」に戻ってくると思います。その時に、

一つひとつの言葉を鵜呑みにせずに自分なりに捉えていくことが肝心だと思います。

西川先生のいうように「腑に落ちる」ということはそういうことだと思います。