私は、過去「一人も見捨てない」を強く願って語る時期がありました。
学級経営の不安さから、というのもあったと思います。
しかし、願えば願う程、子どもたちへの「期待」ではなく「要求」になっていたのでしょう。
私が願ったどおりの反応や行動になって返ってこない、ひどい時は反発として返ってくることに苛立ち、落ち込みました。(後から冷静に振り返ればおかしなことをしていたのですが、当時はそんなことわかりませんでした)自分としては全力を注いでいるのにもかかわらず、子供達はどんどん離れていく、そんな感じがしました。それは、1年間の終わりまで続きました。辛い日々でした。
それから数年たったクラスでは、語りに全力を注がず、子どもたちの変化にも多少柔軟でいることを心がけました。しかしそれは、「傷つきたくない」という思いがどこかにありました。クラスを比べても仕方ありませんが、全力でぶつかっていった以前のクラスとは違った1年間になりました。
それから数年して低学年を持ち、あることに気づきました。
子どもたちが、教師の出す「雰囲気」を敏感に感じ取っているのではないか、ということを。
例えば、
教師が「君たちのこと好きだよ」って気持ちで語っていること
教師がニコニコしていること
教師が子どもたちの失敗を「あらまあ」と笑って流せること
そのような「雰囲気」が子どもたちにとって安心感を与え、語りが伝わるのではないかと思いました。
そして、私にはそれが決定的に足りてないことに気づきました。
以前のクラスの子どもたちがよく「先生、怒っているの?顔怖いよ」って言っていたことを思い出しました。
ああ、なるほど、当時から子どもたちは気づいていたんだ。語りというより、私が出している雰囲気みたいなものを感じていたことを。だから、全力で語っても「上から押し付け」「先生の勝手」なんていうように捉えていたのかもしれない、と思いました。
(つづく)