おに先生のブログ

小学校の先生のブログ 『学び合い』やってます

心身を調子よくする最強の武器、それは◯◯

よく有名なyoutuberが、モーニングルーティン公開していますよね。

以前はあれ見てると「本当にこの人、毎日やってんの?」って思ってました。

しかし最近、私は気づきました。

 

モーニングルーティンっていい

 

 

そして、仕事で成果出す人って、きっとモーニングルーティンがあるかもと思うようになってきました。それくらいモーニングルーティンというか「習慣」をつけるって心身の調子を整えるものだ、と思います。心身の調子がよければ、日々の生活の調子がよくなる、そして仕事の調子もよくなる、そんな感じだと思います。いや、仕事の調子をよくする→心身の調子をよくする→習慣をつけるという思考過程の方もいるかもしれません。

 

かくいう私も、最近相当忙しい日々を送っているのですが、ほんのいくつかのことを

習慣にしてみると、案外続いてそれが日々の調子をよくするのもだとわかってきました。

そして、さらに「習慣」について書かれた本を読んだり、Youtubeを観たりして精度を上げていきました。

 

わたしが取り組んでいるメインの習慣は以下の4つです。

 

・朝同じ時間に起きる

・朝起きたらランニングか軽い筋トレをする

・同じ時刻に英語の勉強をする

・7時間以上睡眠時間が確保できるように就寝する。

 

さらに、この習慣に付随していくつかのことも習慣化できてきました。

 

・朝起きた後簡単な瞑想をする

・朝起きたら「英語の資格を取る」というイメージトレーニングをする

・通勤前の車の中で、1ページだけ英語の表現を口に出す

・小腹が空いたらナッツを食べる

・昼間は炭水化物を抜く

・昼の休憩時間に目をつぶって目を休める

・一言日記を書き、それを英文にする

・なんでもいいから少しでも読書する

 

これらは、できる日とできない日があるのですが、だいたいできています。

上のメインの4つさえできていればいいって考えなので抜けていても、あんまり気になりません。

 

 

これまで私は、何度も英語の勉強にチャレンジしようとし、続きませんでした。

長い距離のマラソンをしようとして、続きませんでした。

「朝活」とかいう活動を入れようとして、続きませんでした。

夜にブログを書くとかSNSを発信するとかして、続きませんでした。

 

そして、この「続かなかった」ことを「意志が弱い」と考え、自己嫌悪に陥っていました。

しかし、そうではなかったみたいです。私に足りなかったのは「習慣」にするための知識でした。「習慣」にするのは案外簡単です。時間と場所を決めて、することをシンプルにし、続けるだけです。それだけで毎日が変わります。それくらい人間の体、というか脳はシンプルな生活をよしとするんだろうな、と思います。

 

というわけで、参考になった本とYoutubeを紹介しておきます。

忙しい人ほど、習慣を身につけるとよさそうですよ。

 

 

 


www.youtube.com

大学入学共通テスト

大学入学共通テスト
僕の時代はセンター試験
 
2回受けたけど、もう2度と受けたくないし、受けることもないでしょう。
「勉強だけしてればいい」とはいえ、浪人時代は暗黒時代でした。2回目受けた時はそれなりに結果は出たけど、結局センター試験の結果とはあまり関係のない進学をすることになりました。
 
僕は浪人時代に自分の能力の限界を感じました。医歯薬系の大学を受験する人たちは僕よりも成績が高くないといけないことを知り、「努力は実る」とか「夢は叶う」とか聞いてたけど、能力の差があると確信しました。
 
人それぞれ能力があって、それにあった生き方をすればいいと思っています。
私の妻は高校入試も大学入試も経験していないので、ドラゴン桜を見ながら「共通テストって難しいの?」と言います。そんな彼女と僕は一緒に暮らしています。知識の差は多少ありますが、センター試験で勉強したことは、生きていく上であんまり影響はないように思います。
 
それよりも、家事をしたりとか、子育てをしたりとか、パートナーと良好な関係を築くとか
そういうことの方がもっと大事な気がします。
 
とはいえ、受験生の方々には、先なんてわからないんだし、目の前の志望校に合格することが
大事なんだから、こんなうんちくはどうでもいいと思います。単なるつぶやきです。

タブレット使ってどんな宿題すればいいの?

タブレットの持ち帰りがはじまって「タブレット使ってどんな宿題をすればいいの?」という

話をよく聞くようになります。

 

相手が何を望んでいるかによって、回答を変えますが

僕の一番聞きたいことは「宿題は何のためにあると考えていますか?」です。

しかし、これは泥沼化するのは過去の経験から想像つくので、ほとんどしません。

 

ただ先日、とある校長先生から「宿題の在り方変えたいんだよね。そもそも宿題って何のためにあるの?」と言われてびっくりしました。「あれ、僕が数年前に言った意見、葬られたのに・・・」と思いながら、校長先生も認識を少しずつ変えていらっしゃるんだろうなと思いました。

 

僕は過去「同じ課題を全員に与えるのは、簡単すぎる子や難しすぎる子がいませんか。難しい子にとっては苦痛でしかなく、翌日学校で休み時間にさせられるなんて不毛ではありませんか。また、家に帰ってから習い事があったり、他の学習教材で学んでいたりと、家庭によってバラバラなな状態で宿題を課すことが負担になる子もいませんか。宿題って何のためにあるのでしょう。私は自分で考えて、自分で学んでいけるような子に育てたいと考えているので、一律一斉を課題を出してその意欲を削ぐことをしたいと思いません。」と何かの会議で意見をことがあります。

 

また、コロナ一斉休校になった際に、学校から課題を一斉配布することが前提で話し合いが進んだ時「何で課題を学校から渡すことが前提なんですか?」と言ったこともあります。当然ながら周りの反応は「お前、何言ってんの?」でした。

 

「宿題必要りますか?」の意見を言って返ってくる返答はだいたい同じです。

 

・保護者が宿題を出してほしいと言っている

・強制しないと勉強しない子もいる

・宿題をしないと学力は落ちる(宿題をしないと基礎学力はつかない)

・家庭での学習習慣をつけないといけない

・課題を期限までに取り組む力をつけないといけない

 

もちろん、これら一つ一つに対して、反論することはできるのですが、

その時は確証が持てない部分もあったので、その年はそのすべてに応えられるような

実践を行いました。

 

・保護者が宿題を出してほしいと言っている。

 →保護者が願っているのは宿題を出してほしいのではなく、自分の子どもが学習をしていないことを不安に思っているのがほとんど。宿題を出さずとも、子どもが自分で学ぶようになり、テストの点数も高ければそれ以上の意見を言ってくることはない。(いや、むしろ宿題を出してほしいと言っている保護者はほんの一部で、宿題をさせないといけないと思っている保護者が多くて、子どもとそれで争いになっているケースの方が多い)

 

・強制しないと勉強しない子もいる。

 →子どもは自分自身が興味関心のあるものであれば、どんどん学ぶ。

 苦手なことにすぐに向き合うことはできなくても、次第に学ぶ目的と必要性がわかってき

 たら、「強制しないといけない」ものも自ら学ぶようになる。

 それでもやろうとしない子は、見方を変える。どうすればこの子は学ぼうと思うのか、と。

 そもそも「強制しないといけない」勉強なんて何だよって話ですが、百歩譲って

 身につけた方がいい四則演算のスキルとか漢字とかは授業でつければいい。

 授業でできないことを家庭や子ども本人に押しつけるのは教師としての責任放棄。

 いや、そんなスキルなんてのも、本当に身につけないといけないのか、と考えたら疑問。

 漢字や計算よりも大事なことあるんじゃないの、って思う。

 

・宿題をしないと学力は落ちる

 落ちません。私は宿題を出さなくても十分、テストの点数は維持できました。むしろ宿題のような強制的な課題だと子どもはやる気なくなるし、適当にやったことなんて、身についてもいない。分からない宿題を強制されても、分からないまま。

 

・家庭での学習習慣をつけないといけない

 強制して行うことで「習慣」はつきません。自分がやりたいと思うこと、やななければいけないと思うことが「習慣」につながります。大人だって、強制されて「習慣」になるわけないでしょ。英単語毎日10個覚えろって、言われたらなんて答えますかね。「勤務時間外まで強制するな」でしょうか。同じこと子どもにやっているのに。

 

・課題を期限までに取り組む力をつけないといけない

 「課題を期限までに」は学校生活で身につければいいのではないでしょうかね。

 宿題でなくても、授業で出した課題に期限をつけて、自分で時間をコントロールする機会を

 与えれば身につくのではないかと思います。家庭のように、教師の目が届かないところで

 行うことに対して「課題の期限」なんて無茶でしょう。(だいたい、自分の仕事の期限も守れてますか)

 

 

というわけで、私怨も含めて「宿題を反対する意見」に対して反論を述べてきましたが、

これらのすべて、自分自身も宿題を取り組む理由として以前まで考えていたことであって、

これら一つひとつに対して疑問を持ち、それに対して向き合ってきたからこそ、

宿題ではなく、どんな学習をしようか、という考え方に変わっていったんだと思います。

 

とはいえ、目の前で宿題の話をされるとやっぱりモヤモヤします。

我が子が今度小学校1年生。宿題なんて出さなくていいから、授業を充実してほしいと思うわけですが、そうもいかないんでしょうね。やれやれ

 

 

大事なことは、学び続けること

自分は何を理解し、何を考えたのか。そして、どうしたいのか。
 
結局、自分の頭で考えて、自分の言葉で語らないといけない。
 
考えること、表現することは、自分の力のなさと向き合うことにもなるけれど、それを言い訳にしては終わりだ。
 
考え、表現できる方々は、ずっと向き合い続けてきたから、今の場所にたどり着いているし、まだ前を向き続けていると思う。
 
いつになったらそこに辿り着けるかわからないし、辿り着いたと思ったら、まだ先にいるかもしれないけれど、後ろを振り返れば、ずいぶん前に進んでいることに気づくかもしれない。
 
いずれにしても、歩みは止めたくない。今日の一歩がこの先の何歩になるように。

成人の日に懺悔する

今日は初めて持った卒業生が成人の日を迎えるとのことだったようです。

小学校を卒業した後、中学、行った人は高校と色々な出会いや思い出ができているんだから

私のことや、小学校6年生の時のことなんて人生の一時のことでしかないんだろうけど

「思い出してくれたら嬉しいな」と心のどこかに思っている自分がいます。

未練がましい僕の性質なのか、教師の性なのか分かりません。

 

小学校の6年生の担任をしただけの存在の僕が、今だに「先生」なんて呼ばれるなんて

おこがましいし、偉そうに「お前たちの小6の担任だぞ」なんて絶対に思いません。

むしろ「あんな先生で申し訳ない」という気持ちの方が強いです。

 

小6の後半から、クラスの雰囲気がしっくりこなくて焦り、数名の子どもたちと気持ちが離れてしまいました。若さゆえ、未熟さゆえ、子どもたちとの距離感をうまくとれなかったんだと思います。

 

だからといってその時、何かできたかといえば何もできなかったと思います。

ただただ、最後まで一生懸命にやるしかありませんでした。

後悔はしていなくても、懺悔はしたくなります。「ああ、あんな先生で申し訳なかった」と。

 

あの6年生担任の経験があったから、教師として成長できたと思うし、次に担任した6年生の時には、同じような失敗はしませんでした。(その時はその時で違う悩みがあったけれど)

ただ、後から僕がいくら成長しようが、他の6年生で改善しようが、担任した子たちとの1年間が変わるわけではありません。だから、思い出すたびに、苦しくなります。「すまん」と。

 

しかし、こんなことを思っているのも単なるエゴではないかと思います。成人になった卒業生たちは、私のことなんて全然覚えてなくて、僕の懺悔なんてどうでもよくなっているのではないかとも思います。おそらくその方が可能性が高いでしょう。だから今更「懺悔します」なんて言っても何にもならないのも、分かってはいます。

 

だからこそ「思い出してくれたら嬉しいな」と思っているのかもしれません。

もしかしたら楽しい思い出しか残っていなくて、僕は救われるかもしれない。

 

でもそんなことは叶うことではないし、願うべきことではないと思います。

教師たるもの、過去を振り返ることはあっても、離れた教え子たちのことは手を振るだけで、

今まさに目の前にいる子のことを考え、前身していくべきなのかな、と思います。

 

今日、集まって、話をして、どんなことを思い出しているのかな。

1人でも僕のことを思い出してくれたら声をかけてあげたい。「おめでとう」

いつか会おうぜ。

 

 

2022年の目標

f:id:f-manabiai:20220109213823p:plain

 

2022年も始まって、10日ほど経ちました。

みなさんいかがお過ごしですか。

私はというと、仕事がかなり立て込んでいたので、ブログを書くのは控えていました。

2022年、ブログを書くぞ!なんて記事を前回書いたのですが、

それよりも大事なことがありました。それは、毎日を気持ちよく過ごすことです。

だから、気持ちよく過ごすために「休息」すなわち睡眠を優先しました。

 

なんだそんな当たり前のことか、と思うかもしれませんが

毎日を気持ちよく過ごすためには、睡眠は欠かせません。

どうしても、休日や年末年始は睡眠時間が不安定になり、結果的に昼間だるかったり、

眠くなったりしていました。どちらかというと働いている時の方が、気持ちよく過ごしていたと思います。やはり、睡眠時間が規則的でないと体の調子が崩れ、気持ちよく過ごすことができなくなると感じました。

 

そこで立てた私の2022年の目標は

毎日を気持ちよく過ごすための「習慣」をつける、です。

これは昨年もだいぶん意識したことなのですが、なかなか続けられなかったので、

今年はもう少し続けられるようになりたいと思います。

 

昨年、学校から離れて働き出してから、仕事がいい意味で単調になりました。

毎日、定時に出勤し、定時に帰る。学校ではなかなかできなかったことです。

その分、体調の良し悪しが、仕事の調子の良し悪しつながり、毎日の気分の良し悪しつながることがよくわかりました。

 

 

この本を読んでから、脳のことをずいぶん意識するようになりました。

結局、気分の良し悪しなんてものは脳が決めているんだから、

日々をハッピーに過ごすかどうかなんても脳次第。

脳をコントロールできれば、自分の人生も変わるんだろうなと思います。

 

そこで考えたのが「よい習慣」を作ること。

よい習慣を作り、脳をよい状態にすれば、毎日を気持ちよく過ごすことができる、と

考えました。

まあ、こんなことは似たような本にいくらでも書いていることなのですが、

結局、やるかやらないか、なんだろうなと思います。そして、今年こそは「やる」

そう思って目標にしました。

 

「習慣」なんて言っても、毎日やることは次の4つ。簡単です。

 

1.決まった時間に起きる

2.起きたらランニングか軽い筋トレをする

3.英語の勉強をする

4.決まった時間までに寝る

 

どんなに忙しくても、この4つを続けてきましたが、思った通り毎日気持ちよく過ごすことができています。「睡眠」「適度な運動」「適度な勉強」は脳に良い影響を与えるからでしょう。逆にいえば、この4つを妨げるものはカットしていけばいいし、実際ブログを書くこともやめていました。今までは「毎日書かないと!」と思って無理やり書いている時もありましたが、寝ることを優先していました。そしたらもう10日も経ってしまったのですが、そんなに後悔はしていません。というわけで、今年は「ほぼ毎日更新」はなさそうです笑

 

さて、この4つを妨げるもの、いくつかあるので挙げていきます。

 

・夜のスマホ、テレビ

・Twitter

・夜の飲酒

・夜の食べるお菓子

 

まあ、完全に禁止するまでもないですが、これらは悪影響を及ぼしますね。スマホは特に

よくない。触っている時間が長いのは自覚しているので、意識してコントロールしないといけません。

 

あとは、この4つを成り立たせるものもありますので、挙げています。

 

・週に1回以上ジムに行って筋トレ

・昼間の炭水化物のカット

・整腸剤の定期摂取

・水を多めに飲む

 

劇的な効果、というわけではないですけれど、すべて体の調子を整え、脳を良い状態にするための方法だと思っています。また、次の方法でやる気を継続するのも大事だなと思います。

 

・習慣の記録(TickTickというアプリと手帳日記)

・勉強の記録(iPadで書く)

 

こうやって書くと、ストイックだなと思う方もいるかもしれません。

確かに、「これをする!」と決めて毎日行うのはアスリートのような印象を持ってしまうから

だと思いますが、慣れてしまえばそんなに難しいことではないと思います。

それよりも、続かないことに対する自己嫌悪感や、体調が悪くなることで失われる時間や

幸福感の方がもったいないと思うので、これくらいのことならそんなに大変ではないかなと思います。

 

 

もちろん、これは私自身が昨年学校から離れてみて必要感を持ったことだし、

学校にいたら、毎日同じペースで過ごすことができないので、続けられるかどうか分からないのですが、むしろ学校戻るまでに、「歯磨き」レベルまで習慣化してしまえば、学校に戻ってからも楽なのかな、と思っています。

 

健康第一、脳の調子第一。それだけでハッピー。

6年目の新たな試み

f:id:f-manabiai:20211231120454p:plain

 

 

 

 

あけましておめでとうございます。

今年も「おに先生のブログ」をお読み頂きありがとうございます。

このブログは「GTOのブログ」として2016年1月1日にスタートしました。

f-manabiai.hatenablog.com

最初は、何となくの思いつきではじめて、1週間、1ヶ月と続けていき

1年、3年、5年・・・と続きました。

このブログが続いたのは何より私が「文章を書いて気持ちや思考を整理するのが好き

だからだと思います。もちろん、読んでくださる方がいるのも励みでしたが、

やっぱり続けられたのは、自分に合っていたからだと思います。

主に『学び合い』の実践を書いたり、自分が日々感じたことを書いたりするという

日記的な内容ではあるのですが、5年間で1858記事というのは、我ながらすごい

数字だなと思います。

 

ところで、2020年度、育休を取っている際は、とにかく毎日更新して、ブログのデザインを変えたりするのにも挑戦しました。

f-manabiai.hatenablog.com

 

その時感じたのが、人が読むブログや文章にはちゃんとルールがある、ということでした。

それから、2021年度にICTの推進の仕事をはじめるにあたって、デザインを学ぶように

なりました。

f-manabiai.hatenablog.com

それから自分のブログを読み返してみると、まあ読みにくい(笑)

もともと日記的な内容とはいえ、文章がダラダラ書いていて、誰かに読んでもらえるような

内容ではないと思います。とはいえ、そんな中でも気合いを入れて書いた文章もちょこちょこあって、たとえば先日に投稿したこれ

f-manabiai.hatenablog.com

自分のために作ったわりには、デザインも含めていい感じにまとまりました。

いつものようにアップをしたら、結構シェアをしてもらって、「誰かの役立てたかな」と思いました。

 

この経験から2022年は「誰かの役に立つ発信もしていきたい」と思いました。

もちろん、このブログは僕自身が好きだからやっているわけなので、これからもずっと続けますが、いかんせん読みにくいので、新たな試みとして

 

おに先生のブログpro

 

なるものを作ろうと思います。

要は、おに先生のブログの「まとめ版」なのですが、自分にとっても5年間で1800以上の記事をそろそろまとめてもいい頃合いなので、やってみようかなと思います。

pro版は、「誰かの役にたつ」「見やすいデザイン」を心がけていきたいです。

できるだけ近日中にアップしたいと思いますので、ぜひチェックしてくださいね。

 

 

それでは2022年もどうぞよろしくお願い致します。

 

 

『学び合い』とは を整理してみた。

f:id:f-manabiai:20211229222614p:plain

『学び合い』とは?

 

意外にも答えにくい質問です。長年実践しているのに・・・

 

『学び合い』とは・・・・な授業です。

『学び合い』とは・・・・な教育理論です。

『学び合い』とは・・・・な考え方です。

 

実践者によってこのような言い方がいくつかあり、いったいどれが正しいのか分かりにくい部分がある、と感じています。提唱している西川先生も少しずつですが、説明が変わってきています。実際、実践している人たちは、このことについて、そんなにこだわっていないのかもしれませんが、この私はそういうのが嫌です。はっきりさせたい。

 

「はっきりさせたい」という気持ちは、過去に「『学び合い』はじめの5冊に何が書いているのか」をすべて網羅するという謎の行動力につながったこともあります。それに似ています。

 

というわけで、『学び合い』の提唱者である西川純先生や、『学び合い』を実践してきた先生たちが本などでどのように説明しているか、できる限り調べて、紹介したいと思います。

 

  1. 「三つの観」
  2. 「一つの願い」と「二つの観」そして具体的な方法
  3. 「一人も見捨てない」
  4. 「一生涯の幸せ」

 

 

三つの観

私が読んだことのある『学び合い』関連の書籍等で、一番古いものが平成24年版「『学び合い』の手引き書」です。そこにはこのように説明されています。

 

『学び合い』の基本的な考え方は3つです。教育の多くの建前論とは違って、この考え方が当人の腑に落ちているか、いないかが『学び合い』の成否に決定的に影響します。 

 

第一は、「学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、 より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」であるという学校観。

第二は、「子どもたちは有能である」という子ども観。

第三は、「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れ

ば学習)は子どもに任せるべきだ」という、授業観。

 

つまり、『学び合い』とは?という答えは、これら3つの観のこと、と説明すればひとまず正解ということになります。ここで補足をしないといけないのですが、西川先生は最近では、これらの観のことを次のように説明しています。

 

『学び合い』は一つの願いと、二つの観によって構成されます。

 まずは願いです。その願いとは、「子どもたちが一人も見捨てられない社会・教育を実現することによって一生涯の幸せ(つまり不幸でない)であることを実現する」ことです。これを実現するには一人の教師では無理です。

 一人一人の子どもは何を獲得したら幸せになるでしょうか?

 それが学校観です。つまり「多様な人と折り合いをつけて自ら課題を解決することを学び、周りの人は同僚であることを実感する」ことです。これを獲得できる人は幸せになるでしょう。しかし、すべての人が自力で獲得できるわけではない。自力で解決できる人は多くはない。例えば学校レベルで言えば、自力で一定以上の課題を解決できるのは一部の子どもです。その他の子どもが獲得できない原因は多種多様です。そして、多くは膨大な対話が必要です。しかし、物理的に教師がすべてに対応できない。

 だから子供観が必要です。つまり「子どもたちは有能である」と考えるのです。一人一人の子どもを別々に見れば能力はかなり低い。しかし、それらが有機的に結びついた「子どもたち」はかなり有能です。最も簡単な説明は、どんな子どもも1日は24時間です。つまり、クラスの子どもは一人の教師の三十倍の時間をかけられるのです。以上から生まれて、洗練されたのが『学び合い』の授業方法です。つまり、願い、二つの観と完全に一対一対応するのです。

(20181124「西川純メモ」より)

 

一つの願いと二つの観、そして具体的な方法

 

『学び合い』は一つの願いと、二つの観によって構成されます。

あれ、一つ減ってない?そして願い?

西川先生も時が経つにつれ、『学び合い』に対する説明が少しずつ整理されています。特にここで特徴的なのが、「授業観」がなくなっていることです

これについて、西川先生は以下のようにブログで説明しています。

 

私は2014年以降は授業観に関して発信していません。そして、今は「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任せるべきだ」という授業観は私の中から消え去りました。

(「西川純メモ」より)

 

これについて、もう少し詳しく説明している記事があります。

 

個別最適化する社会において、一人一人の目標は異なります。当然、評価も異なります。そして、環境すらも異なります。目標を設定し、評価し、環境を整備するのは教師ではなく、学習者当人なのです。では、教師は何をすべきでしょうか?子ども一人一人が、目標を設定し、評価し、環境を整備できるように、今後の社会のヴィジョンを持たせることです。それを全員に保証するには、集団を形成することです。そのためにも、ヴィジョンが必要なのです。

(2019617「西川純」メモ)

 

『学び合い』の授業観では、目標の設定、評価、環境の整備は教師の仕事としていますが、あくまでそれは学習指導要領に縛らられた学校教育、授業におけるもので、これからの学校、子どもたちがこれから生きていく社会では、学習者自体が目標を設定し、評価し、環境を整備できないといけない。そして、教師の仕事は、子どもたちが目標が設定できるよう、授業レベル以上のヴィジョンを設定しろ、ということなんですね。確かにこの説明を読むと、授業観が消えてしまうのは納得です。

 

2014年以降に出版された本を読むと確かにこのように書いています。

 

『学び合い』の基本的な考え方は2つです。教育の多くの建前論とは違って、この考え方が当人の腑に落ちているか、いないかが『学び合い』の成否に決定的に影響します。 

第一は、「学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、 より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」であるという学校観。

第二は、「子どもたちは有能である」という子ども観です。

このたった2つの考えから『学び合い』の授業は導かれます。

 

つまり、現在では『学び合い』とは、一つの願いと、二つの観 ということになります。

なんとシンプル。「それだけ?」と思う方もいるでしょう。シンプルがゆえに、どのようにこれらを具体化するかは、教師に委ねられている、ともいえるのですが、『学び合い』とは一体なんなのか、分からなくなる方もいるでしょう。そこで、具体例やテクニックが本などでたくさん公開されてきました。そのさきがけとなったのがこの本です。

 

『学び合い』は、

①子どもに課題を与える

②子ども同士で教え合って、課題を達成してもらう

③「全員がわかる」が目標。それができたかを評価

という方法で成り立っています。

 

これは授業場面に限定された『学び合い』の実践なのですが、観よりもイメージしやすい分、

ここから、イメージをつくり、『学び合い』を実践する人が増えてきたと思います。私自身もその1人です。ただそうすると、元々は「一つの願いと、二つの観」なのに、このような具体例で示したような実践が「『学び合い』である」と示しているようなものです。分かりやすくなった分、教師の裁量がなくなった面もあります。

 

同じようなことは、次の本でも書かれています。

これで救われる方がいる反面、混乱する人も出てきました。

救われた方は、『学び合い』の考え方に納得しつつも『学び合い』の授業のイメージできなかった方です。『学び合い』の考え方を理解し納得した上に、方向性を示してもらったことで授業がやりやすくなってきたことでしょう。混乱する人は、試行錯誤しながら自分なりの『学び合い』を模索してきた方です。示されたやり方(方法)でなければ、『学び合い』の授業とは言えないのかということです。この本が出る前から言われていた「はいどうぞ、の『学び合い』」しか『学び合い』ではないのではないか、ということです。

 

確かに私自身も、「自分の実践は『学び合い』なのか?」と思うことが何度もありました。

『学び合い』とは?の問いは私自身がこれまで感じてきたことでもあります。

それについて、西川先生は次のように説明しています。

 

一人で『学び合い』を実践している人から、「私の『学び合い』は本当の『学び合い』なのでしょうか?」と聞かれることは少なくありません。でも、家元制度ではないのですから、誰かによって認定されるものではなく、自分で判断すればいいのです。分かりやすい判断基準は以下の通りです。

 

1) 一人も見捨てるなと子どもに求めているか?

 

これは実践が進むと「一人も見捨てないのは得だ」となります。そして、私の本だったら「学歴の経済学」、「アクティブ・ラーニング入門」、「サバイバル・アクティブ・ラーニング入門」、「2020年激変する大学受験!」で書いているような今後の社会のことを語ります。

 

2) 教科の内容を相対的に見られます


『学び合い』は面白い授業、分かりやすい授業を目指しているのではなく、子どもの幸せを目指しています。だから、その教科の蘊奥・奥義を教えることを目指しているのではありません。「その教科の蘊奥・奥義を教えること」を全面否定はしませんが、一人残らず全員の幸せを願うならば、「その教科の蘊奥・奥義を教えること」を持ち出しません。


3) 子どもに任せる時間が長い


子どもに任せる時間は、子どもをどれだけ信頼しているかと比例します。これは自分の限界を理解しなければなりません。そのためには、子どもには多様性があり、全員がその子にあった指導を求めていることを理解しなければなりません。それが理解出来れば自分には無理だと理解出来ます。「でも、子どもに出来るだろうか?」という不安は、『学び合い』は2割の学力的にも高い子どもを納得させ、その子達が6割の子どもを動かし、8割の子どもが残りの2割の子どもを動かすという構造を理解しなければなりません。ただし、校長からの命令で出来ない場合は除外されます。その状況で出来る範囲のことをやればいいのです。

以上は、願い、学校観、子ども観に対応するものです。
『学び合い』は対象と期間によって多様です。

 

一つの願いと二つの観を自分なりに解釈し、実践

実践していることが一つの願いと二つの観に当てはまるのか、検討
 
これが『学び合い』を実践する上で肝心なこととなります。
誰も「これは『学び合い』である」という実践を見せることはできないし、
「これは『学び合い』で、これは『学び合い』ではない」と明確に分けられるものでもない。
さらには、「二つの観」もシンプルがゆえに、解釈が難しい。
 
それがわかるのが次の記事です。
西川先生は、学校観について次のようにブログで説明しています。
 
 「多様な人と折り合いをつけ自らの課題を解決すること」ができる子どもを育てることが学校教育の目的であると語るのが『学び合い』の学校観です。このたった24文字にどれほどの情報量があるか。
 
 例えば、多様と一言に言いますが、二十年以上の『学び合い』研究の中でそれは深化しています。最初は健常児、それがグレーゾーンの子どもも含め、特別支援学級の子どもも含め、ありとあらゆるタイプの知的障害、情緒障害を含めています。そして、現在では、保護者集団、地域集団さえも包含しています。
 
 しかし、多くの場合は、無意識に一部の子どもを除外しています。現状の授業では、そうしない限り心を病んでしまうからです。そして、知的な障害を持つ子ども以外全員が難しい課題を解けたとき、思わず「みんなできたね」と言ってしまうのです。心は言葉に現れ、ボディランゲージに現れます。
 
 折り合いという言葉も意味深い。仲良くなることを求めていません。そして、全ての人とつきあえることも求めていないのです。あくまでも集団の中での凝縮力が大事なのです。これは良い職場の人間関係と同じです。腹の中でどうおもっているか、また、実際に話さない人が職場にいてもいいのです。集団としてパフォーマンスを高められる行動を一人一人が出来ればいい。
 
 自らの課題を解決、という言葉も意味深い。なぜなら、これは「徳」ではなく「得」で動くべきだと語っているのです。だから、子どもに損得勘定で語ることが出来ます。おそらく、多くの教師がやっていないことだし、それはいけないことだと思っていることだと思います。しかし、そうしない限り、中長期にわたって行動を維持することは出来ません。滅私奉公出来るのはせいぜい1ヶ月ぐらいです。
ざっと考えても24文字の言葉には以上のものが含まれています。そして、それ以上のものを膨大な学術論文が支えているのです。さらに言えば、諸般の事情で論文に出来ない学術データからもです
(西川純のメモ)
 
短い文、そこに含まれる解釈はかなり多くなるんですね。要するに、シンプルな分、解釈が難しい。だからこそその解釈がブレているかも分かりづらい。『学び合い』とは が答えにくい質問と最初に書いたのはそういうわけなのです。

 

「一人も見捨てない」という願い

 

ではここで「一つの願い」について触れたいと思います。

この「願い」について、西川先生は上に引用したように、

「子どもたちが一人も見捨てられない社会・教育を実現することによって一生涯の幸せ(つまり不幸でない)であることを実現する」

と説明しています。

この「願い」ですが、いくつかの書籍の中で触れられているのですが、微妙にニュアンスが違います。

 

以下、紹介します。

 

2017301

 

『学び合い』は、一人も見捨てない教育を実現しようとして生まれたものです。

(中略)『学び合い』では、子どもたちに「一人も見捨てないことは得である」ことを繰り返し語り、実現させる教育です。

 

2015220

『学び合い』とは、額面どおり一人も見捨てないことを目指した教育の考え方です。

 

2017501

 

『学び合い』は単なる授業方法ではありません。「一人も見捨てない」という強い思いと、それを実現するための方法論です。

 

この3冊からわかるように、若干使われている言葉は違いますが、

『学び合い』は「一人も見捨てない」ことを目指す、実現する ための方法論・考え方と説明されています。『学び合い』を実践している方なら「一人も見捨てない」はおなじみですね。

 

この本では、こうも書かれています。

 

20161020

一人も見捨てられない共生社会の実現に向けた、子どもたちがお互いに一人も見捨てられない集団づくりの教育の実践が『学び合い』です。

 

「一人も見捨てられない共生社会」「一人も見捨てられない集団づくり」と説明していますね。

 

一生涯の幸せ

 

さて、ここまで色々な本から引用して「一人も見捨てない」をみてきました。

でも読者のみなさん、ちょっと気づきませんか。最初に引用した文章と若干違うということを。もう一度引用します。

 

『学び合い』は一つの願いと、二つの観によって構成されます。

 まずは願いです。その願いとは、「子どもたちが一人も見捨てられない社会・教育を実現することによって一生涯の幸せ(つまり不幸でない)であることを実現する

 

そう、『学び合い』の究極の目標は、「子どもの一生涯の幸せ」なんです。

つまり「一人も見捨てない」は確かに目指すべきこと、願いなのですが、あくまでも

「一生涯の幸せ」のための目標なのです。

 

一番最近の記事でもさらりと西川先生は書いています。

 

『学び合い』は面白い授業、分かりやすい授業を目指すのではなく、子ども達の一生涯の幸せを保障する教育実践です

(20211202西川純のメモ)

 

そして、「一人も見捨てない」については、次のようにも書いています。

 

『学び合い』の最大・最強のテクニックは何でしょうか?

 私は「一人も見捨てない」だと思っています。まあ、正確に言えば、「一人も見捨てないことは自分にとって得である」であり、もっと正確に言えば、「一人も見捨てないことを諦めないことは自分にとって得である」です。もっともっと正確に言えば、「一人も見捨てないことを掲げ続けることは自分にとって得である」なのです。

 さて、何故、「一人も見捨てない」が最大・最強のテクニックなのでしょうか?

 『学び合い』が機能するためには、集団の2割(その多くは成績上位者)が馬車馬のように頭と体を動かしてくれるからです。その子達は「得」だから頑張ってくれるのです。もし、教師自身がそれを信じられないとしたら、その子達が動くわけ無い。

 今まで色々な入門者と接してきましたが、そこが分かれ目です。もちろん、全ての人が最初から「一人も見捨てない」を信じ切れるか、それも事実と論理で信じられるとは思いません。しかし、「一人も見捨てない」を素敵であると思う人はいます。「一人も見捨てない」は教師の義務だと踏ん張れる人はいます。そして、自分の能力はこの程度だから「一人も見捨てない」を掲げた方が「マシ」、「かなりマシ」と理解出来る人はいます。

 「一人も見捨てない」を前面に出さなくても、即ち、「得」を語らなくても、2割の子どもが不満に思わせないような授業力のある方は、もしかしたら『学び合い』を成立させられるかも知れません(かなり危ういですが)。一般の教師がそれが出来るとは思えません。

一人も見捨てないは何か、崇高な願いというよりも「テクニック」とすること。

なにせ、教師一人の力の限界に気づき、子どもに任せて信じた方が、可能性があがるから。それはテクニックとも言える。もちろん、達成できないかもしれない。

 

(20181230「西川純のメモ」)

 

僕はこの記事を読んだ時に衝撃を受けました。

「え、テクニックなの?」と

その時は、これ以上のことを感じなかったのですが、今になってやっと分かったことがあります。「一人も見捨てない」は願いであり、目標であり、テクニックなのだ、ということ。

本ではほとんどが「願い」「目標」として語られているのに、実は「テクニック」の要素もあったということが、私をずっと混乱させてきた要因でした。そして「テクニック」と聞いてから、ものすごく安心しました。なぜなら私にとって「一人も見捨てない」にこだわることはしんどいからです。

 

 

目指したいのは分かります。

額面通り、一人も見捨てたくなんてないんです。

でも、現実を知ります。一人を見捨ててしまうことを。

それがとにかく苦しい。わかっているのに、何もできない。

だから時々、「なんで見捨てるんだ!」って子どもに思っていまうし、

「自分は一人も見捨てない」を本気で願えないダメ実践者だ、なんて思ったこともあります。

でも、心の中で「一人も見捨てない」を願いつつ、テクニックとして使うのは、

ハードルが一気に下がります。

「一人も見捨てない方が、みんなにとって得だよ」と

一つの生き方として提案するという捉え方ができるからです。

ただ、今まで様々な子どもたちに実践を行なってきて経験してきたことですが

「一人も見捨てない」のパワーはすごいです。

僕は、学ぶ、学び合う、つながるための「エンジン」と思っています。

そして、子どもたちの幸せを願う。これなら、多くの先生たちに共感してもらうことが

できると思います。

 

まとめ

さて、「『学び合い』とは」を整理するためにだいぶ時間をかけて書きました。

要するに『学び合い』とは西川純教授が提唱する、「一人も見捨てないことを目指し、子どもの一生涯の幸せを保障することを目指した、二つの観を基本とした方法論、考え方、授業実践というわけです。シンプルがゆえに、実践をしながら「子どもに何をどう語ればいいだろうか」という迷いが起こるたびに、「『学び合い』とは」に戻ってくると思います。その時に、

一つひとつの言葉を鵜呑みにせずに自分なりに捉えていくことが肝心だと思います。

西川先生のいうように「腑に落ちる」ということはそういうことだと思います。

あえて「対話」とか「つながり」の場をつくること

ここ数日、いろんな学校の先生たちと話をする機会がありました。自分のキャパを超えた内容が多く、全然消化不良なので、仕事が落ち着いてから少しずつ整理していこうと思います。ひとまず記録。
 
今年度になってから「個別最適な学び」というワードがずっと気になっていて、自分の過去の実践はもとより「自分自身の学び」にフォーカスして、ぼちぼち思考を巡らせている最中です。
 
自己の「最適な学び」を考えた際に、時間とか場所とか方法は当然として「対話」「つながり」が欠かせないと自覚するようになったのは、コロナ禍で人と人の関わりが制限され、今まで当たり前だった「面と向かって話すことの意味」が顕在化されたり、今の仕事柄、多様な経歴や考え方の方と接するようになったりしたからかもしれません。
 
話さないと、相手が何考えてるかも、自分が何考えているかも分からない。話しているうちに、自分の思考が整理されていることに気づくこともあれば、相手から気づかされることもあります。それはいつも同じ関係で起こりうるのではなくて、多様な「つながり」によって起こります。
 
そんなのは、当たり前といえば当たり前なのですが、意外と意識されていないんじゃないかな、ってのが自分の最近の気づき。だからこそ「対話」とか「つながり」を「あえて」つくっていかないといけないのではないかと感じています。
 
ひとまず年末に動き出してはみた。
あとは、年明けからどう動くか、かな。
まあ焦らずぼちぼちやってみるしかないけれど。
 

 

メリークリスマス

息子がクリスマスをとても楽しみにしているみたいです。

 

自分の子ども時代を考えると、その気持ちはよく分かります。

 

息子の姿を見ていると何だか微笑ましいです。

 

クリスマスってもしかしたら、子どものためでもあり、親のためでもあるのかもしれません。

 

小さい子の素直な心。

大人になるとそういう心に胸を打たれるのかもしれないですね。

 

いつまでも続くわけでもない今この時を大事にしないといけないな、と思います。