おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

小学校の先生のブログ→引っ越しました→https://note.com/onisensei024

【お知らせ】ブログの引っ越し

2016年1月から約8年間続けてきたこのブログですが

noteに引っ越すことにしました。

https://note.com/onisensei024

理由は単純で「日記感のあるブログ」を「広告なし」で続けたいからです。

はてなブログを使い続けてきて、一時期から有料のPro版を使用し

ブログのレイアウトなども変更してみましたが、あまり続かず。

結局、シンプルな「つぶやき」を書き続けることが自分に合っていることが

わかりました。

ずっと続けてきたこのブログから離れるのは「もったいない」と思いますが

それではいつまで経っても変わることができないので、思い立ったらGOということで

変えてみることにしました。

このブログをいつも読んでくださる方々、ぜひnoteの方にも来てくださると嬉しいです。

 

#68 ◯◯◯が嫌い

教科の研究、教科研が嫌いです。

理由は簡単で、子どもと先生たちを救えた試しがないからです。

 

学校の教師に必要なことは、日々の授業を行うための基本的な技術

学級経営、生徒指導、保護者対応のはずです。

 

しかし、教科研にこれらを学ぶ余地はない。時間と労力だけかかって何の役にも立たない。

はっきり言って無駄の極みです。やりたい人たちが勝手にやればいい。

 

学ぶべきことを学べないこと、かけるべきことに時間をかけられないことへの皺寄せはジワジワと広がり、誰かが苦しむことになる。

はっきり言ってうんざりです。

教科研、嫌いです。

#67 根底にあるもの

自分たちは、苦労して仕事をしてきたんだから、今の人たちはめぐまれている。楽をするなんておかしい。仕事に専念しろ。

 

先輩方の根底にはこのような考え方があるんだろうなと思う。そして、どんなことを上から下から言ったところで根底はゆるぎやしない。

 

「働き方改革」なんてのはただの「お飾り」で、何かしていることといえば「早く帰れ」と声をかけるだけ。具体的な案を提案してもNO。自分に関心のないものはスルー。そんなんで「働き方改革」なんて成せるはずがない。

 

今一番大事なことは、増え続ける「◯◯教育」と幅広い学習内容に対してどれだけ生産性の高い教育活動を行うことができるか、だと私は思う。そのために必要なのは「時間の余裕」のはずだ。余裕がなければ子どもにもよりよい教育ができるはずない。

 

残念ながら先輩方からすれば、そのような「余裕」なんてものは「甘え」にしか捉えられないのだろう。だから僕が提案する「時間の余裕」案には全く関心を示さない。悔しいけれど、意地をはっても仕方がないので、次の一手を考えるしかない。

 

 

#66 カタリ

教職を目指す60名の学生さんたちの前で話をした。

 

「学級経営とは」

「教師として大事なことは」

「学生時代に学ぶべきことは」などなど

 

学生たちの質問に一気に答えた。

次々に言葉が湧いてきて、どんどん熱量があがってくる感じ。

 

先日中学校でワークショップをした時もそうだし

6年生を一時的に担任した時もそうだった。

 

僕は人前で語ることが快感なんだろうなと思う。

 

もちろん、つまらない話をダラダラするつもりはない。

先日、とある研究発表会の時に講師のお偉いさんの話を聞かされたわけど

全然頭に入ってこなかった。とにかく話がつまらない。

 

僕はいま僕が持っているだけの技術をすべてぶつけて語る。

そして技術を上回る「熱量」で語る。これがここ数年で見出した僕のスタイルだ。

聴いている人の心に響けば、御の字だ。

 

人前で語ることが僕の「強み」だとしたら、どんどん伸ばしていきたい。

自分自身をもっと売り出し、話をする機会を増やしていきたい。

 

もちろん、いまの職場、教室での「語り」を一番大事にしたいけどね。

#65 教師は何を語るのか

「あのクラス、子どもたちの雰囲気がいいよね」

「子どもたち、授業中がんばっているよね」

 

そんな会話を職員室でよく聞きます。勤務校が複数の教員で一つの学年の授業を割り振りしているからでしょう。私も1年生から6年生、特学と様々な学級に補充に入るので、共感できることがあります。では教員が感じる「雰囲気のよさ」「学ぼうとする姿勢」とは何か。なぜそのような雰囲気や姿勢が生まれるのか。そんなことを考えます。

 

「雰囲気のよさ」や「学ぼうとする姿勢」を言語化するのは難しいですが、箇条書きで挙げるとこんなところでしょうか。

 

・教室内の誰か発言したことに対して、肯定的に受け止めたり、最後まで聞こうとする。

・他人に対する言葉づかいが柔らかい

・学習と自由時間の切り替えが早い。体の姿勢がいい。

・「ペアまたは近くと話してください」という指示に対して、会話が自然に起きている。

・「これどういうこと?」という自然な質問や「どうしたの?」という気遣いが自然に起きる。

・課題が終わった後、学ぶことを自分で決めて取り組んでいる。

 

細かく挙げればまだまだあるし、僕の好みも含まれているとは思いますが、このような子どもたちの言動を総じて「雰囲気」「姿勢」と感じ、複数の教師の好みの共通項のことを「よい」と感じているのではないかと思います。

 

小学校は学級担任制である以上、学級担任の影響で大きいでしょう。もちろん、学級の中にどのような子どもたちがいるかどうかで変わる部分はあると思いますが、一番影響を与えているのは、一番長く関わる学級担任のはずです。

 

学級担任が子どもたちに何を話しているのか。どのようなことを大事にしているのか。それを知るには、最低でも丸一日、継続して教室や授業に入り、担任と子どもたちの様子を観察する必要があるでしょう。とはいえそれをするのは現実的ではありません。そこまでしなくても1時間の授業や日々の言動でも想像がついたり、見つけたりすることができる「何か」が知りたい。僕が今一番関心があるのはそれです。

 

現在の立場上、様々な学級に突発的に入ったり、数日間だけ過ごしたりする私にとって、その「何か」を狙って子どもたちに伝えることが、私にできる最善策ではないかと思います。また、学級に直接関与しなくても、若手の先生や担任の先生に対してピンポイントで伝える「何か」があれば、無駄なこと、的外れなことを伝えずに済みます。長く、時間をかけて対話を通じて行なっていくものだというのは重々承知しているけど、今の状況がそれを許しません。

 

もやもやしつつ言語化できずのまま、先日2つの中学校に訪問し、授業を見てきました。学校全体で実践している授業の見学しているのですが、僕の関心はやはり「何か」幸い複数の学年、学級の授業を同時並行で参観することができ、明らかに学年や学級によって「学びの姿勢」が違うことが分かりました。

 

学級担任制ではなく、教科担任制の中学校。小学校よりは一人の教師の影響だけではなくなる仕組みの中で「雰囲気のよさ」とか「学ぼうとする姿勢」を生み出しているのは、教師の「何か」で、よりそれが今の私の状況に近いのではないかと考えました。授業が終わった後に、ある先生と話をした時に、日頃から「学ぶ意義」「周りとつながる意義」を語っていること、価値づけていることを聞き、それが集団の中にいる上位層に伝わり、全体に広がっていったんだろうと感じました。

 

おそらくその中学校では学校全体で取り組んでいる「学び合う学習」に合わせて授業を行なっている方もいるでしょう。そのような方にケチをつけるつもりなんて毛頭ありません。それよりも関心があるのが、「学ぶ意義」「周りとつながる意義」を語らず、形だけ「学び合っている」だけだと雰囲気はどうなるのか、学ぼうとする姿勢は見えるのか、というところに関心がありました。

 

これもまた言語化するのが大変難しいのですが、『学び合い』の大先輩に言わせれば「目線」と言っていました。僕はどちらかというと「表情」の方を大事していた感がありましたが、確かに「目線」なら「何を見ているか」「どれくらい見ているか」くらいしかないので、評価がしやすくなります。表情ではなく、「目線」で捉えると、課題に向かっている目線が長い方が学びに向かっていると言えるし、周りを見渡して関わるべき相手を探している目線は、集団の中で自分がやるべきを考えていると言えます。

 

おそらくこれから「協働的な学び」というワードが出るたびに、どのように評価するのか、どのように働きかけするかが鍵になってくるでしょう。ただぼーっと眺めているだけでは、協働なのか学び合いのかおしゃべりのなのか違いがない。

 

そして翌日、もう一つの中学校。この学校には縁があって、何度も訪れたことがあったけど、雰囲気が大きく変わっていました。何を書いても批判になってしまうし、ここに書くべきではないと思うので、具体的に書くのは控えておきますが、雰囲気の違いを生み出しているのは、おそらく上に書いてきたことだと思いました。課題は大事。僕自身も集団を維持、向上していく上で、「語り」だけでは限界があると思っています。よりよい集団を形成するには、課題が必要。しかし、その前というか土台として「雰囲気のよさ」「学びに向かう姿勢」を形成していく働きかけは必要条件なんだろうなと気づかされました。おそらく、僕がこれまでずっと感じていた校内研究授業や教科研究に対する違和感もそれ。

 

そして昨日。中学校を訪問した方々と振り返りを行い、腑に落ちたのが「協働観」という言葉。「『学び合い』の実践者は協働観のベクトルが違うんですよね」という指摘に今まで自分がひっかかっていた「何か」が少し見えた気がした。それならば今まで僕が教育実践した上で感じてきた「何か」あくまでもそれは『学び合い』の実践上の「何か」だけれど、それをうまく言語化し、ピンポイントで使っていくことがこれからの僕の目標なんだろうなと感じました。

 

#64 課題のレベル

何だか知らないけど、なんたら研究会の方々は高尚な授業をやりたがる。

板書がみっちり書いてある授業や、張り物掲示物がたくさんある授業をしたがる。

 

学習指導要領解説にはそんな高尚な授業を目指したくなる文言が並んでいるんだから、

決してやろうとしていることは間違いではないんだけど、全部教師目線。

「そんなつもりはない」って多くの方は言うんだろうけど

それなら、教室にいるあの子が全然わかっていない、参加していないなら、誰目線の授業なんですかって。

 

結局、教科書の内容レベルががみんな分かるってところまで課題のレベルを落とさないとダメで

まずはそこからはじめていかないといけないよねと思う。そこを飛ばして先を行こうとするからズレる。

で、ある程度学習に向かう姿勢と学習理解、集団がまとまってきた時に、課題の内容が充実しているかどうかが大事になるわけで。

 

何を習得するにしても、急に発展からはいらないと一緒だと思うんだけね。

相変わらず令和になってもおんなじことの繰り返しだわ。

 

 

#63 『学び合い』と『』

『学び合い』の授業(と呼んでいる)をたくさん見た。

2日間で10以上。いろんな学年、いろんなクラス、いろんな教科の授業だ。

学校全体で『学び合い』の授業に取り組んでいるからこそできること。

 

予め断っておくけど、決して非難したり、偉そうに講釈を垂れたりしたいわけではない。

思った通りに書きたいだけ。好き勝手に発信する時代ではないけれど、このブログくらいは

そんなことを気にせずに書きたい。

 

僕が見た数々の授業の中で『学び合い』の授業と思えるものは1つしかなかった。

それ以外は中身のない『学び合い』、『』だ。

 

仕方ないことだと思う。たまたま赴任した学校の研究テーマが『学び合い』で、やらざるを得なかった方だっているだろう。それなりに実践してきた人でも『学び合い』の考え方が腑に落ちていない方だっている。僕だってそういう時期があったんだから、咎めることでも何でもない。

 

中身のない『』がなぜ、中身のないものと感じるのか。

この二日間、ずっとそれを考えていた。

 

子どもが学びに向かう姿

子どもが周りとつながる姿

子どもが教師の語りに心を寄せる姿

 

これがあるかないかなんだろうなと思う。

今まで当たり前のように見てきたベテランの『学び合い』実践者の授業には、

この姿が「当たり前」のようにあった。

 

でもそれは、普通ではなかったんだろうと思う。それまでの教師の見取り、語り、声かけすべてが積み重なってその姿になったんだろうと思う。

 

だとすれば、この違いを伝えるのは相当難しい。

実践して、悩んで、失敗して、考えて・・・この繰り返しの先に『学び合い』の中身ができてくるんだろうなと思う。

 

 

 

#62 六年生の担任

一週間、六年生の担任をしました。

教務との兼務ですが、他の先生に授業を割振をしてもらったので、昨年度まるごと担任の時より楽です。

自分が担当する授業と担任業務に集中することができました。

 

さて、一週間六年生と過ごしてみて、一番感じたことは、教師として一番大事(基本)なことは何かということです。

そしておそらくそれは「子どもたちにやる気を持たせる」ということです。

 

いったい何のためにやってるの?

それでいいの?

そうだよ、そうすればいいんだよ。

おおお、すげえじゃん。

 

僕が言ったことはそういうことばかり。子どもたちに「やろう」と思ってもらえるように、語り続ける。

今までは春先に話すことだけど、今回入ったクラスでは、11月の今でも必要だと感じて話をしました。

決して担任批判をしたいわけではないですが、おそらく担任の先生はそこに重点をおいていなかったんだと思います。

だから子どもたちも「まあいいか」という感じで毎日を過ごしていたのでしょう。

 

そこにやってきた、見過ごせない男、僕。

 

一週間で劇的に変わったわけではないけれど、火がついた子はいると思います。

それが私の仕事だと思っていますから。

 

#61 担任最高じゃん

本当にそれでいいの?何のために学校きてんの?

学校きて、早く帰ることばかり考えてさ、じーっと座っているだけでいいことあんの?

先生もさ一緒に考えるから、ねむくならない、やりがいのある学習をしようよ。

 

それから変わった。

 

寝ていた子達が起きて、一生懸命学んでいる。

ダラダラ雑談をしていた子たちが、集中して学んでいる。

 

子どもたちの表情が満足そうだった。

明日はしないんですか?と聞いてくる。

 

子どもたちのやる気に満ちた顔。いつになってもいい。担任最高だ。

別に特別なことはやってない。

子どもたち全員が学ぼうとする、学び続けられるように

働きかけをしただけ。

多くの教師に知ってほしい。こんなにも簡単に教師の楽しさを、担任の楽しさを味わえるってことを。

 

#60 工業化社会のコード

https://www.jun24kawa.com/entry/2023/11/05/041339

 

「同時化・規格化・中央集権化のコードに縛られている工業化社会人」

 

「工業化社会のコード」

 

このような言葉が何度か出てきます。公立学校の教員である私も、このコードの中で勤め、このコードによる教育を行なっているんだろうと思います。

 

「授業」という点でいえば「一斉指導」が「工業化社会のコード」の典型例で、それを脱却する授業として『学び合い』やアクティブラーニング、個別最適な学びなどが挙げられると思います。

 

しかし、学習指導要領に基づく学校教育を行うことが、「工業化社会のコード」と言われるのであれば、一斉指導であろうが『学び合い』であろうが「学校の授業」と言えるでしょう。

 

西川先生のブログ記事の主張を私なりにまとめると「社会は多様化、非企画化、分散化しているのに、学校を統括している文部科学省が工業化社会のコードから逃れられないから、改革は進まず、改善の繰り返しにかすぎない。いっそのこと今の仕組みをすべて壊して、新しく建て直すくらいのことをしないといけないけれど、そうするにはものすごく時間がかかる」だと思います。

 

なるほどね、と思いますが、これを知ったからといって学校の教員が明日から仕事が変わるわけではないし、来年度に希望がもてるわけでもない。改善は一向に進まず、ただただ、一部の人間に負担がかかるだけ。

 

残す選択肢は学校の教員を離れるか、時が経つのを待つだけしかないでしょう。いずれにしても、どこかで誰かが苦しんでることになります。もしかしたら、私の身近な人かもしれません。

 

西川先生の記事を読んで、「工業化社会のコード」という言葉が出てくるたびに、ため息しか出ないのはこういうことなんだろうと思います。