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#65 教師は何を語るのか

「あのクラス、子どもたちの雰囲気がいいよね」

「子どもたち、授業中がんばっているよね」

 

そんな会話を職員室でよく聞きます。勤務校が複数の教員で一つの学年の授業を割り振りしているからでしょう。私も1年生から6年生、特学と様々な学級に補充に入るので、共感できることがあります。では教員が感じる「雰囲気のよさ」「学ぼうとする姿勢」とは何か。なぜそのような雰囲気や姿勢が生まれるのか。そんなことを考えます。

 

「雰囲気のよさ」や「学ぼうとする姿勢」を言語化するのは難しいですが、箇条書きで挙げるとこんなところでしょうか。

 

・教室内の誰か発言したことに対して、肯定的に受け止めたり、最後まで聞こうとする。

・他人に対する言葉づかいが柔らかい

・学習と自由時間の切り替えが早い。体の姿勢がいい。

・「ペアまたは近くと話してください」という指示に対して、会話が自然に起きている。

・「これどういうこと?」という自然な質問や「どうしたの?」という気遣いが自然に起きる。

・課題が終わった後、学ぶことを自分で決めて取り組んでいる。

 

細かく挙げればまだまだあるし、僕の好みも含まれているとは思いますが、このような子どもたちの言動を総じて「雰囲気」「姿勢」と感じ、複数の教師の好みの共通項のことを「よい」と感じているのではないかと思います。

 

小学校は学級担任制である以上、学級担任の影響で大きいでしょう。もちろん、学級の中にどのような子どもたちがいるかどうかで変わる部分はあると思いますが、一番影響を与えているのは、一番長く関わる学級担任のはずです。

 

学級担任が子どもたちに何を話しているのか。どのようなことを大事にしているのか。それを知るには、最低でも丸一日、継続して教室や授業に入り、担任と子どもたちの様子を観察する必要があるでしょう。とはいえそれをするのは現実的ではありません。そこまでしなくても1時間の授業や日々の言動でも想像がついたり、見つけたりすることができる「何か」が知りたい。僕が今一番関心があるのはそれです。

 

現在の立場上、様々な学級に突発的に入ったり、数日間だけ過ごしたりする私にとって、その「何か」を狙って子どもたちに伝えることが、私にできる最善策ではないかと思います。また、学級に直接関与しなくても、若手の先生や担任の先生に対してピンポイントで伝える「何か」があれば、無駄なこと、的外れなことを伝えずに済みます。長く、時間をかけて対話を通じて行なっていくものだというのは重々承知しているけど、今の状況がそれを許しません。

 

もやもやしつつ言語化できずのまま、先日2つの中学校に訪問し、授業を見てきました。学校全体で実践している授業の見学しているのですが、僕の関心はやはり「何か」幸い複数の学年、学級の授業を同時並行で参観することができ、明らかに学年や学級によって「学びの姿勢」が違うことが分かりました。

 

学級担任制ではなく、教科担任制の中学校。小学校よりは一人の教師の影響だけではなくなる仕組みの中で「雰囲気のよさ」とか「学ぼうとする姿勢」を生み出しているのは、教師の「何か」で、よりそれが今の私の状況に近いのではないかと考えました。授業が終わった後に、ある先生と話をした時に、日頃から「学ぶ意義」「周りとつながる意義」を語っていること、価値づけていることを聞き、それが集団の中にいる上位層に伝わり、全体に広がっていったんだろうと感じました。

 

おそらくその中学校では学校全体で取り組んでいる「学び合う学習」に合わせて授業を行なっている方もいるでしょう。そのような方にケチをつけるつもりなんて毛頭ありません。それよりも関心があるのが、「学ぶ意義」「周りとつながる意義」を語らず、形だけ「学び合っている」だけだと雰囲気はどうなるのか、学ぼうとする姿勢は見えるのか、というところに関心がありました。

 

これもまた言語化するのが大変難しいのですが、『学び合い』の大先輩に言わせれば「目線」と言っていました。僕はどちらかというと「表情」の方を大事していた感がありましたが、確かに「目線」なら「何を見ているか」「どれくらい見ているか」くらいしかないので、評価がしやすくなります。表情ではなく、「目線」で捉えると、課題に向かっている目線が長い方が学びに向かっていると言えるし、周りを見渡して関わるべき相手を探している目線は、集団の中で自分がやるべきを考えていると言えます。

 

おそらくこれから「協働的な学び」というワードが出るたびに、どのように評価するのか、どのように働きかけするかが鍵になってくるでしょう。ただぼーっと眺めているだけでは、協働なのか学び合いのかおしゃべりのなのか違いがない。

 

そして翌日、もう一つの中学校。この学校には縁があって、何度も訪れたことがあったけど、雰囲気が大きく変わっていました。何を書いても批判になってしまうし、ここに書くべきではないと思うので、具体的に書くのは控えておきますが、雰囲気の違いを生み出しているのは、おそらく上に書いてきたことだと思いました。課題は大事。僕自身も集団を維持、向上していく上で、「語り」だけでは限界があると思っています。よりよい集団を形成するには、課題が必要。しかし、その前というか土台として「雰囲気のよさ」「学びに向かう姿勢」を形成していく働きかけは必要条件なんだろうなと気づかされました。おそらく、僕がこれまでずっと感じていた校内研究授業や教科研究に対する違和感もそれ。

 

そして昨日。中学校を訪問した方々と振り返りを行い、腑に落ちたのが「協働観」という言葉。「『学び合い』の実践者は協働観のベクトルが違うんですよね」という指摘に今まで自分がひっかかっていた「何か」が少し見えた気がした。それならば今まで僕が教育実践した上で感じてきた「何か」あくまでもそれは『学び合い』の実践上の「何か」だけれど、それをうまく言語化し、ピンポイントで使っていくことがこれからの僕の目標なんだろうなと感じました。