ちょっとしたことだけど
今の自分には、意識して、手伝うことありますか?って聞くことは、必要だなあ。って思います。手伝いますよ〜って参加するのも。
若手の頃は、気づいたことは何でもやっていました。たくさん頼まれごともしました。そのうち休日や帰宅時間を削ってボランティアや雑用をしていることに「損することが多いな」と感じるようになっていました。そして、「頼まれたらする、自分からは積極的にならない」というルールをつくりました。
異動してから、そのルールを基本的に守っていいました。するとある時、本当に気づいたり手伝ったりするべきことにも鈍感になっていました。これでは、私は「自分勝手な人」と思われても仕方ありません。
私には、新しい学校で自分のことを理解してもらわなければならない、という課題がありました。『学び合い』という変わったことをしているからです。「あいつは、授業も職員室でも自分勝手だ」と多数に思われたら、私の『学び合い実践はかなり不利になります。
そこで、うまくバランスをとりながら冒頭ようなことをするようになりました。正直ギクシャクしてるところがあって、自然に気遣える方を見ると、羨ましく思うのですが、なんとか意識しているところです。
ちょっとしたことだけど、最終的には自分のためにこれからも声かけを続けていきたいです。
うっわー
今週、こわーい人が来ます。
こわーい。
でも、見せることによって、何かが変わる気がします。
がんばろ。
正統派
正統派〜
元祖〜
なんて話を時々聞きます。
料理なんかそうですよね。
ならば、正統派『学び合い』とか、あるのでしょうか。
本来そんなものはないんですが、今「正統派」と「違うもの」をはっきり分けないといけない状況を感じています。
正統派『学び合い』を見分ける方法は簡単です。全員達成、一人も見捨てないを願っているかどうかです。
『学び合い』というと、あのゴチャゴチャした教え合う状態をイメージしやすいですが、形ばかりで願いのないものは、単なる学び合い、教え合いにしか過ぎません。『学び合い』のようですが、違います。
全員達成や一人も見捨てないを表向きは願っていても、活動時間が短かったり、教師の説明がやたら長い、いわゆる「足して2で割る『学び合い』」もあります。これも「正統派」とは言えません。
なぜなら全員達成を目指すなら、子どもの活動時間は自ずと長くなるはずです。また、『学び合い』の子ども観、学校観からもズレます。
ただ「私は正統派で、あなたは違います!」なんて言うことはしません。私だって、数年前までは、「正統派」とは言えないような、『学び合い』でしたし、「一人も見捨てない」ことが腑に落ちていませんでした。少しずつ、少しずつ、自分の『学び合い』が、確信へと向かっていったと思います。
しかし、「私は正統派です」と言わなければいけない状況にあることを、最近感じています。
だから私は今後、『学び合い』をどんどん公開していきたいんです。
いずれ、正統派なんて言わなくても
『学び合い』は、一人も見捨てない教育です、
と言えるようになってほしいな。
気づき
久しぶりの投稿です。
今日は音楽会の代休だったので、
『学び合い』実践者の授業を見に行きました。
子どもたちをフラットに見れるので、子どもたちのつぶやきや動き、教師の語りなどをじっくり観察することができました。自分自身の実践にも生かすことができそうです。
一番心に残ったのは、
『学び合い』って学習の個別化がすごいことになっているということ。教師一人では見とれないあらゆる場所で、様々な学びや気づき、発見が行われていることに気づきました。
『学び合い』って、すごい一斉授業には劣るかなって思うことがあったけど、とんでもない。
セオリー通りに行えば、一斉授業じゃできっこない学びが毎回行われているんだなと思いました。
ああ、そうなんだね。
今日は、音楽会がありました。
各学年それぞれ発表を行い、子どもたちは全学年の発表を聞きます。
それぞれ学年のカラーがあり、最後まで楽しむことができました。
「この学年すごいなー!」と思う演奏もあり、感心したりしていたわけですが、
子どもたちに「一番心に残ったのは…」と作文を書いてもらうと、
案外「ディズニーの〇年生」と答えたりしていて、
大人とは感覚がちがうんだなあと思いました。
いろんな音楽があって、いろんな楽しみ方があるんだな、
目立つ音楽ばかりがいいんじゃないんだな、ということを今更知ることになりました。