おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

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うそ

【うそ】

教師1年目の時に、ある先生から
「子どもはよく嘘をつくよ。子どもが嘘をついた時、どうすればいいと思う?」私は答えられませんでした。その時教わったのが「子どもの嘘を受け止める」でした。

...

教師2年目になって読んだ若手むけの本に『「先生が許さないのは嘘をつくことです」と年度のはじめに子どもの前で宣言する」と書いてありました。実際にやってみたんですが、今思えば失敗だったと思います。

 

今のところ私のスタンスは「ひとまず最後まで話を聞く」です。1年生の子も、よく嘘をつきます。でも後から「嘘ついちゃった」ということが多いです。そんな時は「なんで嘘つくんだ!」なんて言わずに、「うそついっちゃたらモヤモヤするよね。ちゃんとおしえてくれてありがとう」とか言うようにしています。

 

今年で教師8年目になりますが、いろんな子どもの嘘に出会ってきました。嘘の作り話が、どんどん一人歩きして、親がそれを信じ続けたり、頑なに本当のことを言わなかったり、突き詰めていくと嘘だったり、いろいろです。

その経験から思うのが、...
本当のことを言ったら叱られる。
嘘をついてばれたら叱られる(または悲しまれる)
という八方塞がりを大人つくっちゃうのが、よくないんじゃないのかなって思うんです。

1年生が「嘘ついっちゃった」と言ってくれるのは、「嘘をついている自分にモヤモヤする」からなのかなって。年を重ねて「嘘だった」と言えなくなるのは、嘘に慣れて嘘をついている自分にモヤモヤしなくなってるのもあるのかなって思いました。

というわけで、今のところ私は「嘘を受け止める」ようにしています。

(あ、でも場合によっては、追及する時もあるので
パーフェクトではありません…。)

焦りと切実さ

ここ最近、また焦りが頭の中をぐるぐるまわります。こんなんじゃだめだって。

 

授業の検討会も

人権教育も

学級経営勉強会も

 

それじゃないんだ感がつのります。

やっていることが無駄というわけじゃありません。

周りを否定したいわけでも批判したいわけでもありません。

でもそれじゃない。

 

こうしている間に

一人、また一人と苦しむ子が増え、

苦しんでいる子は、ゴールのみえない毎日をおくっている。

淡々とした毎日の中に、見えにくい闇が進行している。

私はそう感じています。

だから焦る。

 

先生たちはみんな懸命にやってます。

自分だってそうです。

「それじゃない」なんて言われても、

「そんな余裕ない」ってなる。

「一生懸命やってるよ」と言いたくなる。

 

実際、行事準備と保護者対応で放課後はおわる。あとは授業の準備とかしてたら一日はおわる。

 

そんな毎日を、ごっそり変えようなんて

容易ではない。

でも、やらなければいけない。

という切実感を持っている。

他の方はどうか知らないけど、

私は本当にそう思ってる。

 

子どもたちだけではなくて、私たち教師も危ない。

言葉悪いけど、誰かが犠牲になる。

たいてい、力のない人がなる。

そうなったときはもう遅い。

 

だから焦る。

今なんだって。

 

たとえ、「今だ」といっても、

すぐに変えられることじゃない。

じっくり、じっくり変えていくこと。

 

私の今日の提案に心響いた人はいるんだろうか。

短いけど、この学校の課題を表した渾身の提案だった。

 もしだれもいないのであれば、それはそれで焦る。

 

やはり切実感がないと心に響かないのか。

でも当事者にならないと切実感はない。

 

 

 焦る。これじゃあいかんと、1人焦る。

 今できることは、仲間を集めることからか。

 

すごいこと

教室に、誰かの帽子が落ちていました。

誰もそれを拾おうとしません。

 

教室に困っている子がいました。

誰もその子を助けようとしません。

 

教室でバケツの水がこぼれました。

誰も一緒になってふこうとしません。

 

学級文庫の本が崩れていました。

誰もそれを片付けようとしません。

 

1年生だからできないのでしょうか。

1年生にはそんなことを「気づかせる」必要はないのでしょうか。

いや、そんなことはないだろう、と思います。

1年生でも少しずつできるようになります。

 

なにせ、そんなことに比べたら私が1年生に言っていることはもっと高度だからです。

 

自分の課題を終わらせ、その後の自分の課題を考え、途中で周りの子の課題も考える。

 

言葉にしてみたら、相当なことを要求してるんだな、と思います。

でも、少しずつなんですが、できるようになってきています。

 

ただ、私自身がそれをすごいことだともっと思わなければいけないなと思います。

そもそも、困っている子を助けることも、落ちている帽子を拾うことも、本を片付けることも、「しなくてもいい」ことをわざわざしているんですから、すごいことです。

 

「なんでそんなことも気づかないんだ」

と思ってしまいがちな自分に待ったをかけて、「気にかけてくれてありがとう」

という思いを大事にしたい。「しなくてもいい」ことをわざわざするのは、

やっぱりそこに得があるからであり、何らかの価値基準があるから。

 

私はその価値基準を子どもたちに伝えていく役目があると思います。

 

 

 

p.s 眠くて支離滅裂ですみません。

 

 

 

 

 

 

共感

1年生を担任して気づくことがたくさんあります。今日、ある本を読み聞かせしていた時のことです。

 

心優しい登場人物が、友達のためを思って、冷たい態度をとり、悲しい別れをする内容です。子どもたちの様子を見てると、涙目になっている子や悲しそうな顔になっている子が多いなか、数名の子がケタケタ笑っていました。

 

この内容でなぜ笑うのか最初はちょっと驚いたけど、発達や経験も違う子たちの中には、まだ想像がつかない子もいるのは当然なのかなと思いました。

 

上の方の学年を担任している時はなかなか気づかなかったけど、大人が「こう感じるだろう」と思うことと、子どもたちの感じることにはかなりズレがあると、当たり前のことながら実感しました。

 

それにしても、ケタケタ笑ってた子たちは、どうやって共感することを学んでいくんだろう。
このような物語にたくさん触れることなのか、道徳などの授業なのか、親や教師の関わりなのか、友達との関わりなのか。

 

いや、そもそも「共感できないといけない」と思っているところから良くないのか。ふと以前高学年を担任していた時、「なんで人に嫌な思いをさせちゃいけないんですか?」と言われた時、何もできなかったことを思い出しました。

 

 

小学校1年生で『学び合い』できるんですか?

「小学校1年生で『学び合い』できるんですか?」

 

今年度、何度か言われたことですが、できるもなんも、『学び合い』が当たり前になりすぎている毎日です。

 

今日の算数は久しぶりに「『学び合い』をします」と宣言して授業を行いました。

授業参観が近いので、スタンダードな状態にするためです。

特に何かが大きく変わったわけではありませんが、

最初に課題を提示し、「分かる」というのは何だろうか。

という話をしてスタートしました。

 

開始早々

「教えて~」の声。

自分の課題を置いて、何人かが立ち上がり教えに行きます。

今まではあんまり見られなかった光景です。

 

「ねえ丸付けして~」

「ちゃんと分かる?」

「これ教えて」

 

こんな声がちらほら聞こえてきます。

 

次第に課題を終えた子が、うろうろするをやめて、おのおの勉強しだしました。

プリントをしたり、ドリルをしたり、絵日記を書いたり。

もちろん、ずっと課題に向かい合っている子や、教えている子もいます。

黒板の前で「終わってない人~?」と確認している子もいます。

1学期は遊んだり、おしゃべりしている子もいたけど、最近は見なくなりました。

別に注意したわけでも、それについて語ったわけでもありません。

いつの間にか、みんなそれぞれ勉強するようになっていました。

 

このなんともいえない、「バラバラ感」が私が今まで経験してきた『学び合い』と違うところであり、すごいなーと思うところです。ふと、「小学校1年生で『学び合い』できるんですか?」という問いの意図を改めて考えてみました。「バラバラな状態で、子どもたちはちゃんと勉強できるんですか?」という意味だったのかもしれません。

 

答えは「勉強します」。

 

 

まだこれで1年間の半分きてないんだよなあ。

どんな成長を見せるんだろうなあ、子どもたち。

楽しみです。

 

 

反抗

いつも読ませていただいている なおたかさんのブログです。

普段とは少し違うテイストの文章でした。

何か、心境の変化でもあったのでしょうか。

nao-taka.hatenablog.com

私が昨年経験したことは、価値基準が「成績」という一つの基準が招いたんじゃないかなということ。その価値基準を年度のはじめから変えようと試みて、それを納得できるようにしていく必要があるなと改めて感じました。

 

とにもかくにも、このようなことを言語化できるなおたかさん、お会いしたことはないけど、本当にすごいなと思います。

 

 

不思議なこと

今週から2学期がはじまりました。

 

夏休みの間に低学年の子や、特性のある子への言葉かけや支援の仕方を学んだので、2学期から生かしていこうと考えていました。

 

2学期が始まってすぐ、カタカナを学ぶ授業を行いました。一通り教えた後に、お手本を見てプリントに書く練習をします。ほとんどの子は1学期のひらがな学習と同じ要領なので、すぐに終わらせました。一方、黒板をみたり、お手本を見て字をうまく書くことができずに苦戦している子たちがいました。

 

1学期から『学び合い』の考え方で授業をしたり、学校生活を送っていたので、すぐに何人かの子が、苦戦している子のところに集まりました。よくよく様子を見ていると、こんな言葉かけをしていました。

 

「どこが難しいの?」

「じゃあぼくがこれ書いてみるから、まねしてみて」

「うすく書くから、なぞってみてよ」

「自分でやってみて。ああ、すごい上手だよ」

「よしあと少し、頑張ろう」

 

そのような言葉かけや関わり方は、まさに私が夏休みに学んだことでした。「まず自分がモデルになって、関わり方を学ぶきっかけになるといいな」と思っていたのに、子どもたちがそれをやってのけて驚きました。

 

その時、1つ不思議に思いました。

「いったいどこでこんな関わり方を学んだんだろう」

 

やはり1ついえることは、1学期の間に何度も何度も関わっていくうちに学んだんだと思います。しかし、ここまで変わるものなのか。。

夏休みに親や周りの大人から何らかの影響をうけたのか、実は、子どもたちは私が思っている以上に1学期成長していて、見落としていたからのではないかと思うほどでした。

 

なんにしろ、このような関わり方を、周りの子が学び、教えてもらっていた子も学ぶ。そういう連鎖を通して、子どもたちは成長していくのかなと。そして教師は、そのような環境を保証するべきなのかなと。

 

『学び合い』の考え方「子どもたちは有能である」をまた一つ、実感した出来事でした。

 

 

母数

ふと思いついたことです。

 

対人関係に難しさのある子が『学び合い』の中で「よい人間関係を築けるか」という問い。

 

私は「築ける可能性が高い」「もし子ども同士の関わりのある時間が休み時間が主で、授業中はほぼないのであれば、よりマシになる」と考えています。

 

「可能性が高い」というのは、「何もしなければ10%だったことが90%くらいになる」というアバウトですが、そんな感覚です。

 

例えば30人学級に対人関係に難しさのあるAという子がいたとします。特になんの手立てのない状態で学校生活を過ごした際、関わる人数は限られるでしょう。でも『学び合い』なら関わる子がぐっと増えます。

 

『学び合い』を実践することで、「関わる機会と人数が増える」ことが「よい人間関係を築く上」かなり大事なのではないかと考えています。もっといえば、『学び合い』は「必ず」よい関係性を築くことができるとまで考える時期もありました。

 

ただ、最近はこう思います。

この29人の中で「気が合う子がいない可能性もある」

 

もちろん、『学び合い』ではこの29人と「折り合い」をつけられる「よい人間関係」を築くできることは十分に考えられます。しかし、そのAという子が満足する「よい人間関係」を築けないこともあり得るのではないかということです。

 

そもそも「よい人間関係」というもの自体が曖昧ではあるのですが、子どもたちの中には「親友」だとか「いつも一緒にいる子」、「話の合う子」がいることが「よい人間関係」だと捉えている場合が多いと感じます。

 

だから、『学び合い』によって、折り合いのつけられる幅広い人間関係が築かれたとしても、

「友達がいない」「いじめられている」「仲良くない」と感じることがあるようです。

 

それは語りとか、時間とかでどうにかできることでもなく、そもそも上の例でいえば29人という数の限界ではないかと思います。

 

ならどうするか。

「母数を増やす」しかないですね。

つまり、『学び合い』でいえば、

学年『学び合い』

異学年『学び合い』

 

私の次のステップはここです。

母数は多いほうがいい。

 

 

 

 

9月1日

9月1日から学校がスタートするところが多いですね。

ネット上で

「死ぬくらいなら学校なんていかなくていい」

という投稿を何度か読みました。

 

確かにそうなんですけど、ある方の投稿に

 

「学校に来なくていいよ」より

「来たくない学校にしてごめんな」

 

とありました。

私もどちらかいうと、後者の気持ちだったので

言葉にしてもらってよかったなと思いました。

 

幸い、我がクラスの子達はみんな来てくれました。子どもたちもが楽しくなるゲームやイベントとか、話ばかりを用意しているわけじゃないけど「みんなで勉強できる」環境は用意しました。

 

「友達と一緒に勉強するの楽しいから、学校行こうかな」

 

こう子どもたちが思ってくれたらいいな。

いや、こう思えるようにすることが務めなんじゃないかな。当たり前のようで、当たり前じゃない気がする。