図で頭の中を整理中
うーん。思っていたほど、すっきりしない。
でもこれを続けていけば、何かが見えてくる気がする。
自分は今、何を目指しているのか。
新学期が始まる前までにできるだけ思考を深めておきたい。
zoom
最近zoomを活用して、全国の方々とお話をしています。今日は声を出せないので、ひたすら話を聞くだけ。
刺激のありすぎるラジオです。
毎日やりたいレベルですね。。
あけましておめでとうございます
2019年
あけましておめでとうございます
今年もどうぞよろしくお願いします
今年は自分のためだけじゃなくて
読みごたえのある記事が書けるといいなと
思っています。
ひとまず正月は読書に浸っています
2018おわり
2018年もおわりです。
このブログを読んでくださっている方々、ありがとうございました。毎回反応をしてくれる方がいるので毎日何かしら発信しようと思えました。
そもそもこのブログは「すごい人たちみたいな発信はできないけど、私の発信に関心を持ったり刺激になる人だっているはず」が始めたきっかけです。
『学び合い』をはじめ、教育関係者の方のブログにすごいな、と思うものがたくさんあります。Facebookの投稿もそうです。だから、「私なんて」と思うことがたくさんありました。
しかし、私の書くことの方がしっくりくるとか、「ああ、わかる」とか「そうそれそれ」という方だっていることを知り、「やってみよう」と思ったのが、3年前の今日。
2016年の正月からはじめて、3年。毎日を目標に続けてきて、投稿が今年1000を超えました。
「コツコツ続けること」なんて子どもたちに言ってる自分はどうなのよ、と言って続けられたのはこれくらいかもしれません。が、続けたことが勇気にもなります。
何年も発信を続けている方も、最初の日があって、一ヶ月があって、一年があって。。そうやって続けてきたんだろうと思います。私も三年間続いているのも、はじめの一歩があったからだな、と年末年始になると思います。
2018年は札幌で衝撃をうけて、
低学年の持ち上がりをし、
ビギナーズをスタートさせて、
何度も刺激をうけて、
2019年の全国フォーラムを誘致し、準備を行うという年でした。
2019年は、また予想もつかない一年になるのかしら。これからも発信は続けていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
良いお年を。
基礎学力をつけないと
基礎学力をつけないと『学び合い』は成立しない。
なんてことを、今年何度か聞きました。
おそらく、基本的なことを理解していないのに、教え合うのなんて無理だ、ということだと思います。
(基本的なこと というのは何か、というのはおいていおいて)
たしかに、1年生に6年生の内容を教え合うなんて無理があるでしょう。
でも3年生の内容を教え合うのに、全員が1年生の内容しか理解できていないという状況というのは
あり得るでしょうか。
たとえば、3年生の内容について『学び合い』をする際に、2割程度クラスの中に3年生の内容を理解している子がいれば、十分に『学び合い』は成立します。クラスの中に2年生の内容、1年生の内容まで理解できていない子がいれば、その子たちは、それぞれのレベルまで下げてから課題に取り組めばいいだけです。
おそらく、全員が3年生の問題を解くための1、2年生までの理解がないと、『学び合い』は成立しない、
だから教師が教えないといけない。ということなのかなと思います。それならば、なおさら教師が授業したら、差が生まれたり、3年生までの内容を理解している子にとってはつまらない時間になるのでは・・・そもそもそんなことたちを満遍なく教師が教えられるんですか・・・
あまり書くと角が立ちそうなので、これくらいにしておきますが、
基本的なことを身につけていないであれば、なおさら『学び合い』がいいと思います。
そして、それでもうまくいかないなら、子どもの方に原因があるのでなくて、教師の方に原因があると思ったほうがいいです。語りなのか、見取りなのか、課題なのか・・・それはその時によってみないとわかりませんが、
大抵、子どもに何度かきいて 見ればわかります。そしてそれを修正すれば、すぐに安定すると思います。
さあ、これから同じような質問をもらった時に、どのように返答するか、少し考えてみてもいいかな、とも思います。
ネームプレート
『学び合い』の実践者がよく使うもので
「ネームプレート」があります。
あれって、何のためにあるのでしょう。
簡単にいえば「可視化」のための道具です。
何を「可視化」するかというと、「誰が課題を終えたかどうか」です。
課題が終わればネームプレートを動かす。
いたってシンプルですが、何のために存在するのか意識していない方もいるんだな、と何度か授業を見て感じました。
ネームプレートは、あくまで可視化のための道具なので、子どもたちが「見える」ようになったら、使う必要はありません。
もしつぎの学年で『学び合い』がなくなってしまったら、もちろんそんなネームプレートはありません。全員達成もありません。
その状況下でも子どもたちにできるようになってほしいことは何でしょうか。それは、「一人も見捨てない」ではないかと思います。
『学び合い』を学んできた子たちのすべてとは言いません。でも何人かの子が「あの子困ってない?」と思って気遣ったり、声をかけたりでして救われることもあるのではないかと思います。
「私は困ってる」なんてネームプレートはありません。それ無しでも気づいて、気遣って、行動できるようになってほしい。
ネームプレートは子どもたちにそんなことを学んでもらうための道具であり、いつかは無くなってもいいものではないかと思います。
だからといってすぐに外す必要もないとは思います。それによって気づけなくなっしまってはいけませんから。一方で、気づかれることで、負担になってしまう子もいるということを忘れてはいけないと思います。
なんのためのネームプレートなのか。
それをしっかり考えてほしい、そう思います。
対話こそ学びの本質なのかもしれない
アウトプット①
昨晩は、とある先生たちとzoomで2時間程度、『学び合い』の話を。
というより、私の疑問点やモヤモヤしていることを聞いていただき、アドバイスをもらう、という形でした。
以下、アウトプットして見ないと自分のものにならないと思うので、書き出してみます。
『学び合い』のその先はあるのか。
そもそも、『学び合い』の出発点は、「子どもたちの最適な学びは何か」だということ。
そのために、子どもたちがどのように学んでいるのか、どんなことを会話しているのか研究、分析をした上でできあがった理論。
だから『学び合い』のその先に学びの個別最適化がある、というのはそもそもおかしなことで、
すでに『学び合い』の理論通りに実践を行えば、個別最適化がなされるということ。
なるほど。
ただ、私自身は、『学び合い』を実践することで、子どもたちの学びが個別最適化しているということを
知っていったにすぎず、実践を重ねることで個別最適化していったというとよりも、「だんだんきづいていった」のが近い。
なるほど。
most likely to succeed
最近、facebook上で話題になっている、映画を観てきました。
「most likely to suceed」
ライセンスなどが必要なものなので、すぐに観れる映画ではありませんが、
今回上映の機会を作って頂いたので観ることができました。
内容は、アメリカのとある学校で行われている学校がどのような学校なのか、
これからの世の中はどのように変化していって、学校で子どもたちが学ぶべきことは何なのか
ドキュメンタリーで構成されていた映画でした。
・・・。
最近、「自分に何ができるんだ」「いや、やっぱり無理だよなあ」となどと考えることが多いです。
そして、「今の学校だったらできないよなあ」なんてことを考えたりします。
本を読んだり、このような映画を観ても感じてしまいます。
しかし、一人の力で変えることも動かすこともできません。
おそらく、今の立場でできなければ、どんな立場になってもできないでしょう。
私におそらく必要なのは、対話と合意形成。
それは学級づくりと一緒。
というより、学級でできないのに、職員室でできるはずない。
私の将来は、今の教室で最善を尽くすかどうかにかかっている。
そんな気がします。
だれかにやる気を持たせてもらうのではなく、自分が持つ。
自分が与える。