詳しく書けないのですが、
詳しく書けないのが残念なのですが、今日びっくりすることがありました。
私が求めていたことが一つ現実になろうとしています。私の声がまさか形になるとは。
もちろん、私の声とその方の考えが一致したにすぎないけど、私は形にすることはできない。
驚きと同時に、声をあげてよかった、と思いました。
しかし・・・。
すごい決断だと思うのですが、周りの反応が薄い。
ああ、求めていることが違うとこんなに反応が違うのか・・・。
やろうとしていることは、みんなのためになることは間違いないのに・・・。
「変える」ことにはパワーがいる。
でも「悪者」になる必要はあるのか・・・。
やはり、「対話」なのか。
それとも、「語り方」なのか。
それとも、「言葉」以外の何かなのか。
私はそんなに違和感を感じたことはないぞ・・・?
今まで勤めてきて、初めての経験。
一方で、周りが一体何をみているのか、分析してみよう。
はやく出会いたかった
「本当の国語力」が驚くほど伸びる本―偏差値20アップは当たり前!
- 作者: 福嶋隆史
- 出版社/メーカー: 大和出版
- 発売日: 2009/07/01
- メディア: 単行本
- 購入: 30人 クリック: 95回
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「根拠俺」的教育論の本は苦手だったのですが、この本は違いました。
私が今までずっと考えてきたことが、シンプルに説得力を持って書かれている。
だから「根拠俺」かもしれませんが、納得できます。
「今までずっと考えてきたと」いっても、言語化できていたわけでもないし、根拠を持って子どもたちに伝えてきたわけでもない。いったい今まで子どもたちに何を教えてきたのか、学ばせてきたのか恥ずかしくなりました。ああ、はやく出会いたかった。
2学期からの国語、ただ単に教科書を進めていくんじゃなくて、力がつく授業を行なっていきたい。
やるぞ。
国語の学習で…
1巻から読んでいるドラゴン桜2
最近6巻が発売されました。国語について書かれています。
「読解とは、単に読むことではなく文章を読んで、頭の中で構造化することなのです。」
「文章を読んで、ブロック分けして全体像を把握する。その作業を手際よく処理し、何が言いたいか素早く理解する力を読解力というのです」
「構造とは3パターン。同等関係、対比関係、因果関係」
同等関係=言い換え 言い換えのパターンは具体化と抽象化→そういう言葉に注目する
対比関係=反対→そういう言葉に注目する
因果関係=原因と結果
特にその中でも重要なのは「言い換え」
全ての教科で求められているのは、言い換える力
「つまり」「例えば」「要するに」「いわば」「すなわち」
何がいいたいの?これを問い続けること
読解力を言い換えると「要約」
つまりキーワードを自分で見つけてそれを使って要約する
キーワードの探し方
作者が言いたいことは「序論」「本論」「結論」の「序論」と「結論」に書いてある。
また、接続詞ではじまる文章に、繰り返し書かれている言葉がキーワード
箇条書きのように引用しましたが、今まで私が我流でやってきた国語の(主に説明文)の考え方とほぼ同じことが述べられていたので「うわーーー」と思ってしまいました。もちろん、ドラゴン桜で紹介されていることが「絶対」ではないとは思いますが、なんか嬉しい気分です。
とはいっても、私は何か特別なことをしているのではなく、
5年生だったら「要旨」
4年生だったら「要約」
6年生だったら「随筆」
など、その学年ごととに文章を読んだり、まとめたりする学習があるので、それの通りにやっていただけです。ただ、「この学習こそ「読解力」をつける学習だろう」と思っていたので上に書いたように「うわー」でした。
決して私は国語を専門的に学んでいるわけでも、力を入れているわけでもありませんが、
おそらくどの教科の学習よりも「ワクワク」します。特に子どもの文章を添削する時はワクワクします。
「どうやってこの文章をわかりやすくするかな」と「考える」からです。
国語のテストは答えの根拠がはっきりしています。
だから、答えるためには「考える」必要がありますし、間違っていても「考える」必要があります。
子どもたちに「説明してみてよ」と言ってみたり「わかるようにまとめて」と言ったりしながら、やりとりするのもなかなか楽しいものです。
もう学校の教師になって10年近くなってしまいましたが、ずっと国語は我流でやってきました。
そろそろまともに学ばないとなあ、と思っているところです。
正直、自分の勤める自治体には期待していないので・・・。
「自分が納得できる」国語教育を学びたいな、と思います。
ちょっと気になっているのがあるんだけど県外なんだよなあ。
脳と体と意欲
先日、聞いた話。
「3日坊主になってしまうのは、「脳が危険」と判断しているから」
「脳は異質なことを受け入れられない。ならどうするか、「脳が安全」と思えるようにすればいい」
専門家の話でもないので信憑性があるかわかりませんが、
この話をきいて最初に思い出しのが、「マラソン」です。
私は、今年の11月にフルマラソンに参加する予定です。もう6回目です。
ですが、普段からいつも走っているわけでもないので、そろそろ本番に向けてコンディションを整えなければなりません。しばらく走っていない状態で走ろうとすると、まず最初にやる気があんまりでません。そして、42.195キロも走ったというのに、2キロを走るのも億劫になっています。まあだいたいいつもこんな感じです。
では、なぜやる気が出ないのか。
それは、やはり体が慣れていなくて動かそうとすると「危険」と判断するからではないかと思います。
だから2キロくらいで「もういい」という気持ちが増えて、やめたくなります。ですが、私は知っています。
これを少し続けていけば「10キロ快適ゾーン」がやってくることを。
毎年マラソンを練習していて気づいたのですが、練習をしばらくしていると10キロくらいが楽になります。
「あ、もっと走れるかも」という感じで、調子がよければ20キロくらいまでは走れたりします。最初に「2キロきつい」と言っていたのが嘘のようです。10キロ以下なら気持ちよく走ることができます。
これってまさに、体が走ることになれることで、脳が「安全」と判断したから、気分もよくなったのではないかと思います。
さて、今年もこの「10キロ快適ゾーン」に入るまでに、練習を続けてきました。今回は脳をコントロールしてみようという狙いもあったので、いかに気持ちよく体を慣らしていくか、考えました。
まず、気温。暑いとやる気がなくなります。
というわけで早朝に走るようにしました。
次に、距離。きつくない3キロ以下にしました。
そして、達成感。これはとても大事です。
「自分って頑張っている」という気持ちは、脳を前向きにすると思います。
SNSに投稿したり、アプリをつかって記録をすることで、それを満たすことができます。
あとは、これは私独特かもしれませんが、「うまく時間を使えている」という点です。
私は常に何かを同時進行しないと気が済まないタイプです。ようは気が散りやすいです。
だから、一つのことに集中することが苦手です。しかし、同時進行で何かを行えば満足することができます。
例えば、マラソンをしながら英会話を聞いたり、YouTubeの講演を聞いたり、そうやって時間を使うと、
ただじっと聞くより効率がよいので、自分自身を納得させ、達成感を得ることができます。
今回はこれも行いました。
幸い、iPhoneとBluetooth スピーカーがあれば、走りながら何でも聞けます。
YouTubeもギガ放題なので、気にしなくていいです。
3キロ走るとだいたい15分くらいなので、英語と講演一つくらいは聞けます。
「よし、今日もやったぜ」という気持ちで朝をスタートさせ、次第に体を慣らしていきます。
そして今日、やっと10キロ快適ゾーンに入っていることを自覚できました。
10キロくらいなら全然余裕です。そして10キロくらいになると、同時進行でできることも色々増えるし、
「ブログで何書こうか」とか授業どうするかとか色々頭に浮かんでくるので、それを考えているとさらに楽に走れます。「吹奏楽を聴きながらが」ポイントです。
さて、それでもフルマラソンは42.195キロ。10キロ程度走れていて満足していては、苦しいだけです。
今までの経験上、どんなに練習しても最後は苦しい。間違いありません。しかも体はボロボロになると、
気持ちもボロボロになること、すなわち体と気持ち(脳)がつながっていることを、フルマラソンを通じてよくわかりました。このフルマラソンをいかに、最後の方まで快適に走るか。それは「トレーニング」しかありません。25キロから先は、素人の自分には、「トレーニング」しかない、と思っています。
でも最初に書いた「脳」のことを考えると「トレーニング」は「危険」と判断されてやる気を失うでしょう。
ではどうするか。それは「承認欲求を満たすこと」だと思います。バンバン自分が練習していることを、周りに言ったり、SNSに投稿したりすることで、やる気を維持していきます。「自分のモチベーションのため」と腹をくくれば、特に反応が少なくても全然構いません。25キロを乗り越えるのは、それだけ自分にとってはハードなことですから。
さて、今回はマラソンに焦点を当てて書きましたが、「脳をコントロールする」ことは他のことにも言えるのではないか、と思います、例えば、勉強にも。これからまた考えるネタがふえそうです。
岩田さん
読みました。読んでよかったです。
おそらく勧められていなければ、このようなジャンルの本は読むことはなかったでしょう。不思議な本です。でも、これからも手元に置いておきたい、そんな一冊です。
はじめは、「この本に書かれていることは、今の自分に何を気づかせるんだろう」と肩に力が入っていました。読みながら「大事にした方がいいな」と思っていることがポツポツと出てきます。しかし、この本はそれを訴えようとしているわけではない。また、小説を読んでいる時のようにストーリーの流れにのるわけもない。ゆっくり時間をかけて語りかけてくるような感じ。
最近自分が好んで読む本は、「訴えることがあるんだ!それがこんなに分かりやすくまとめてあるぞ」と主張するような本が多かったように思います。(太字になっていたり、□囲みになっていたり…最近多いですよね)
この本にはそういうものはありません。でも、岩田社長がどのように人に関わってきたか、人を見てきたか、ゲームのことを考えてきたかがじんわり伝わってきます。そして、今の自分に照らし合わせながら、読んでいくことができました。
また、自分が子どもの頃遊んでいたスーパーファミコンのゲームたちが、こんな想いのあるストーリーから生まれ、自分たちはその世界を楽しむことができたんだ、と知って温かい気持ちにもなれました。
最後に、この本を私に勧めてくださった方へ、感謝です。
そして
一言。
「私は前に進みます」
まだまだこれからです。
そういうことね
「もう実践発表など、人前で話すことはしない」ってのはなんで?
なんで、この人たちは「どんな授業をする」という話をほとんどしないんだろう」
最近わいていた疑問。
その答えが昨日の話からわかったような気がする。
昨日の話し相手は、後輩だけど私よりもたくさん勉強して、たくさん実践を積んでいる人。
以前から「こんなすごいやつがいる」と注目していて、セミナーに一回出てもらったこともあった。
「あなたの実践をもっと発表したらいい」と言うと、彼は「いいです」と断る。
色々事情も話してくれたけど、結局の所「大事なことは伝わらない」っていうのが、理由だった。
そしてそれを聞いて納得。
彼のやっている実践は、とても面白く、話を聞いているだけで「すごい」と思うし、子どもたちもものすごく成長している(らしい)しかも結果として出している。でも、それだけを切り取って発表をしても、「あの人はすごいことやってるな」「突飛でもないことをしているだけで、教科を学んでいるわけではない」などと上辺だけでしか見なくて、大事な根底の部分を見てもらえないとのことだった。
たしかにそれはそのとおりで、このように何時間も対話をしているからこそ、彼が何を目指しているのか、何のためにやっているのか、見えてくることがある。それはキーワードとしては現れないけれど、感じ取ることはできる。しかし、実践発表ではそれは見えにくいというか、見えないだろうと思う。ただのふざけた人にしか見えないかもしれない。
ああ、つまり最近関わりのある人たちが、なんで対話を大事にしているか、というのはこういうことだろうか、と思った。人は意外と理解し合えてないし、お互いのことを知るには対話しかない。大事なことを伝えるためには、誤解をしないためには、対話しかない。そして、実践レベルの話し合いではなく観レベルの話し合いに、終わりはない。
こういうことかな、と思った。
うん、この夏の大きな収穫だ。「対話」
もやもや感
ちょっと関心があって、読んでみました。
この「もやもや感」は何だろうか。
うーん、魚の骨がのどにつっかえた感じ。
一応最後まで読んだけど、最後までその感じはぬけなかった。
本の内容について「批判」するような分際でもないんですが、
「この本、結構ひどくないですか?」が正直な感想。
結局何が言いたいのかというと「「承認欲求」に振り回れると危険だよね」なんでしょうけど、
なんかその例えがあまりにも、稚拙というか、なんでもかんでも当てはめすぎなような。
有名人とかオリンピック選手とかのことを例にあげて、「日本人の弱さが出た」とか言っちゃって
それは「「承認欲求」の呪縛だ」って言い切る。
一応解説はしているけど、ちょっと無理矢理すぎじゃあないか、と思うものばかり。本人に聞いたのそれ?って
思っちゃう。
他にも、誰かに聞いたとか、調査したとか、データがとか一応書いたり、引用したりしているいるけど、
「根拠といえるのかそれ」ってのばかり。一番がっくりきたのが、学校のSNSの問題について1ページくらいでサラッと述べて、あとは「学校と親がしっかり教えるべき」って「えー!」
ツッコミどころ満載だったけど、最後まで読んでわかった。
「この本は書き下ろしです」と。
ああ、なるほどひとまず根拠とかそういうのはだいたいでいいから、
いろいろ例あげて書いてみました。ってことか。
「って、それでいいのか!」
Amazonのレビューが高評価だったこともがっかり。
大した読解力のない、自分でもこの本のひどさは言えるぞ・・・。
色々信じられないな・・・。
8月15日
8月15日だからこそ、読み返す本があります。
さっきまで、この本について文を書いていたのですが、やっぱり教員の私がこのような「センシティブ」な内容について言及するのは、よくないなと思い(身を守るためにも)公開するのをやめました。
私が戦争と平和について考えることは、
「関心を持つこと」「知ること」「考えること」「気づくこと」「行動すること」
です。これは子どもたちにも伝えるようにしています。
あと一つ、
テレビの情報に多くの国民が振り回されていること
戦時中、情報統制されていたこと
なんか似ているところがあって、危ないなと思っているところです。
学ぶことは、色々な情報から自分を守ることでもあると思います。
特別支援について
今日のzoomでのこと。
「特別支援」について自分なりに腑に落ちた。
「特別支援」って、
その子を、ほかの学習者と同じ土俵(平面)にのせるために、教師なり大人が「支援」すること。
(絵が適当だけど)この手が「特別支援」
じゃあ、この「土俵」って何よって、いうのが問題。
もしそれが、「小数のかけ算を学ぶ」であるのなら
小数のかけ算をみんなが学習する際に、2年生で習う九九ができないと、学べないから、それを「支援」する。こう考えると、九九を習得していない子への「支援」は「特別支援」これは「うちのクラスは学習が厳しい子がいるから、『学び合い』なんて成立しない」っていう方の意見と通じるところがある。「学習が成立する能力がないと学び合いっこない」ってことだ。
しかし、考え方を変えてみて、この土俵を「お互いにコミュニケーションがとれて、学びあえる」という土俵にしてみるとどうだろう。
小数のかけ算を学んでようが、九九を学んでいようが、「みんなちがってみんなイイ」となる。
課題がそれぞれ違うだけで、「学び合う土俵」にはみんなのっている。そしてその課題は教師なりの大人の「特別支援」なくても、子ども同士の関わりによって「支援」できる。なぜなら「九九ができる」という課題は、九九を理解している子がたくさんいるこの土俵では、十分にのりこえられる課題であろう。(時間はいくぶんかかるかもしれないけれど)
ならば、「お互いにコミュニケーションがとれて、学び合える」という土俵にのらない子をのせようとすること、教師なり大人の「特別支援」。という考え方、これは腑に落ちるところが今までの経験からいっても、とても納得のいく話だった。
こう考えると、
「この意味での「特別支援」が必要なことあったっけ?」とも思ってしまう。
日本語が通じなくても、ある程度、コミュニケーションがとれたら学び合うし、
いわゆる「基礎学力」が劣っていても、学び合う。
学年がちがっても学び合うし、クラスがちがっても学び合う。
考えるとほんとに少ない。「特別支援」したこと。
ここにはかけないけど、「特別支援」したな、と思うこともある。
そしてそれは、※「こうしたらこうなる」という知見も必要だったけれど、対話やその子を見つづけることによって、うまれるものが多かったから「これ」という正解もなかった。その場ですぐに「みんなで学ぶ」土俵にあげられるものもあれば、時間がかかったり、そのきっかけを与えるものもあった。
※こうしたらこうなる=発達障害などの支援の仕方などを医学的知見から知っておくこと
いやはや、ものすごくすっきりしたというか、今までずっと曖昧だったものがスカッとした気分。
昨日話した方には「ブレイクスルーしたよね」と言われたけど、当の自分が一番びっくりしている。
やはり対話なんだなあ。本当に。
あの時のあの人が
あの時あの人たちが
私のクラスに来て、「この授業いいよ」と言って頂いた
「この授業のことをみんなの前で話してよ」と言ってくださった
そのおかげで、
自分は何を願っているのか、考えることができた
自分も少しは貢献できることあるんだな、と思えた
平凡で、何の取り柄もない、と思っていたり、
本当は何かしたいんだけど、どうすればいいかわからないでいたり、
今の現状をなんとか変えたいと思っていたり
そんな人たちがいると思います。
私もその一人でした。
それを見事にひっぱりあげてくださった。
勇気をいただいた。
私の今があるのは、この経験がもちろん欠かせません。
ありがとう、TEDx HAKATA
ありがとう、よしださん、アントニオ。
ストーリー、書き足しておきますね。