一年生を担任して「わかる」とは、どんなことなのか、子どもたちの様子から
ずっと考え続けてきました。
「~を理解できるようになる」
「~を説明できるようになる」
「~が分かる」
『学び合い』では、このような課題を出すことが多いです。
私も実際にこのような課題を出してきました。
「3人以上に説明して、納得してもらったらサインをもらう。できなかったら改良して、他の人に聞いてもらう」など、細かいことも指示していました。
中学年~高学年では、これでもなんとかなりました。
それは子どもたちなりに「分かる」というものが何なのか、認識していたからだと思います。また、その「分かる」はテストの点数につながることも、子どもたちは認識していたと思います。
しかし、1年生に「分かる」ということは何なのか、全然伝えられないし、子どもたちも納得できないままでいました。1学期の『学び合い』はその確たるもの。
答えのプリントを置いておいても、間違いをそのまま〇にしていたり、〇にしているけどよくわかってなかったりすることが何度もありました。
「説明できる」という課題にしても、ただ書かれた文章を読むだけ。
「納得してもらう」というのも適当にサインを交換するだけ。
これは非常に考えました。
ある時、「先生もう一枚ください」とプリントを取に来る子がいました。
自分でやってみるというのです。その時私はこれだ!と思いました。「分かる」というのは「自分でできる」ということなんだ、と。
1学期末、ひらがなの「は」「を」「へ」の使い分けを考えるプリントを『学び合い』の課題にしました。そして「プリントを〇つけしたあと、もう一度自分で同じプリントをしてみて分かったかどうか確認してみたら?」と提案して『学び合い』をはじめてみました。
すると、数名の子が何度も同じ問題を解いては何度も間違えます。
その時、ああなるほど。と思いました。「子どもたちの『分かる」ってそんな簡単なものではないんだ。少しずつ身についていくものなんだ」と。
そして、このように自分で「分かる」まで同じ問題を解き続けるような
「自分は~が分からない」という認識が持てるようになることが必要だと思いました。
ならば、「あなた分かっていないよ」と気づかせてあげるのは、誰か。
それは、子どもたちだと思います。もちろん、教師が言ってもいいのですが、30人近くの理解度を調べたところで、ものすごく時間がかかります。結局、子どもたちがお互いに相互評価できるようになることが「分かる」へつながるんだと思いました。
このように一年生を担任して
「分かる」というのは、「自分でできる」「分かっているか相手に説明できる」ことなんじゃないかなと思えるようになりました。
これは、高学年を担任していた時には、気づかなかったことです。
結局のところ、本などで紹介されている「〇人に説明できるようになる、納得してもらったらサインをもらう」に行きつくことになるのでしょうけど、何となくこの課題を出すことと、「分かる」とは何か、意識して課題を出すことは全然違うんじゃないかなと思いました。