アクティブラーニングと『学び合い』
先日、指導主事さんたちと話をしていて以下のような内容がありました。
「アクティブラーニングという言葉だけが流行している。アクティブラーニングは特に小学校は昔からずっとやっていること」
「アクティブじゃないラーニングってあるの?」
「協同的な学習や、ペア、グループ学習、ディスカッションなど、すでにアクティブラーニングは行われている。だからアクティブラーニング型なんて言い方はおかしい」
「アクティブラーニングの目的は、より主体的に、よりよい生き方を見つけること」
つまり、その方々のとらえ方としては、
「今まで通りで変わらない」ということだと思います。
ただ、単なる授業の方法レベルを目指しているのではなく、文科省の論点整理で「知っているこ とを使ってどのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか」が目的であることは何度も強調していました。
この時はっきり感じたことは、
今後「アクティブ・ラーニング」という言葉が流行し、学校現場の中で使われようとも
結局は、『学び合い』と違うんだろうなと思ってしまいました。
今広まりつつある「アクティブ・ラーニング」は
一部の主体的な子、一部の協同的な子、一部の社会的能力のある子…そんな子たちにとって有効で「知っているこ とを使ってどのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか」を達成できると思います。この点はおそらく今までと変わりません。
『学び合い』で達成できるのは、その子たちとその一部の子もに入れない数人~一人です。そこが大きく異なるます。いや全然違います。
『学び合い』は「一人も見捨てない」考え方です。
これは今の広まりつつある「アクティブ・ラーニング」では決してできないことです。
今西川先生がどんどん「アクティブ・ラーニング」の名で『学び合い』の本を出しているのは、「一人も見捨てない」『学び合い』こそ、「アクティブ・ラーニング」だと
誰しもが思えることを狙っているんだと思いますし、そうなってほしいと思います。
実践者としてはうかうかしてられません。
アクティブ・ラーニングが出てくる以前と同じ、
したたかに、くさらず仲間を集め、理解者を増やしていくことが肝心だと思います。