おに先生のブログ

小学校の先生のブログ 『学び合い』やってます

『学び合い』で目指すものって

 アクティブラーニングの話を聞いてから、いろいろ想像をしていました。

 

例えば

「GTOさんは、何でアクティブラーニングしているのですか?」と聞かれたらどうしようかなって。

 

「アクティブ・ラーニングをしているという実感はありません。学級のすべての子どもたちが分かる授業を目指しているだけです。子どもたちが自由に動きまわっているのは、分かる授業をする上で欠かせないと思います。座っていたら必要な時に話せません。もちろん、話し合いも必要ならするし、必要なければしなき。自分でいくら考えてもわからなければ、人に聞くし、どうしてもわからない人がいたら、声をかけて教えたり、一緒に考えたりする。そんな感じです。少人数のグループでもいいのではと思いますが、もしかしたらそのグループでは聞けないかもしれないし、教えるべき子は、そのグループにいないかもしれない。グループ以外の子と関わる必要がある子もいますので、自由に動き回れるようにしています。

そもそもアクティブラーニングが目指しているのって、10年後、20年後の日本の社会で子どもたちが大人になったときに、生きていくための力を育むことを目指しているんですよね。先行きが分からない時代にどんな力が必要なのか知り、その力がつくような授業や学校生活をつくっていくような試みが必要だと思います。

もちろん、すべての子どもがそのような時代に合わせた力をつけて、日本の世の中を支えていってもらえたらベストです。しかし、「すべて」の子がそんな力つけられるのでしょうか。私は、このような力を「すべて」の子がつけられるとは思いませんし、国も「すべて」に求めてないと思います。未来に生きている力をつけられるのは、ほんの一部だと思うんです。

半ば脅し文句のように、様々な教育機関から「将来いろいろ変わる。そのための準備を」と謳っていて、その流れにのって今からしっかり投資を行っている親も多いと思います。しかし、それがすべての家庭でかなうのかといえば、そうではないと思います。

また、10年後、20年後、しっかり準備をしていきた子たちが社会に生き残って、準備をしてきてない子が社会からドロップアウトしたとき「ほら、準備をしてないからだ」って、切り捨てる社会でいいのだろうかって思うんです。

 

次の未来を切り開いていく人材は絶対必要です。育てる必要があると思います。そのためのアクティブ・ラーニングだと思います。

でも私はちょっと違うんです。

そんな切り開いていく側の人間と、落ちおぼれていく人間がいて、それぞれが自己責任じゃなくって「ねえ、大丈夫?」って言えたり、「助けてよ」って言える社会であってほしいなと思います。

だって、自分が動けなくなった時に誰も助けてくれないって、さびしくないですか。

いくら社会でうまくいってたとしても、誰しもがそんな状態に陥るかもしれないんですよ。「大丈夫か。今度は俺が助ける番だよ、この前助けてもらったからな」と言えるような関係だったらいいなって思うんです。

 

『学び合い』が目指しているものって、こういうことなんじゃないかなって思います。

もちろん、学習指導要領だったり、アクティブラーニングだったりを蔑ろにしているわけじゃないですよ。でも方向性がかなり違うと思うんですよね。先にも言いましたが、

「アクティブラーニングをしている感覚はありません」というのはまさにそこです。

 

今日もバケツの水をひっくり返してしまう子がいました。すると、子どもたちが駆け寄ってきて、みんなでふいていました。私が目指す姿って、そういうことだと思うんですよね。」

 

 

と話すかな。