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zoom会議②

ある先生が以下のようなことを言っていました。

 

教室または、その先に信じ合う世界をつくること人の言っていることを聞いてもいいと思えること

 

教師の隠し事はばれてしまう。

だから聞かれたことを正直に答えるいつも本当のことを言っていると、子どもは自分たちのことを信じてくれていることに気づく。

 

 

なるほど、そうやって教室に信用できる雰囲気を作っていくのか。そしてそれが、学び合う関係になっていく。自分はどうだろうか。

本当に子どもたちのことを「信じて」いるのだろうか。いたのだろうか。正直自信を持って言えないところがある。私は子どもたちを学び合わせていただけで、本当に子どもたちを信じて『学び合い』をしていたのだろうか。

 

 

初期の頃に感じること。

「信じなくちゃいけない」というプレッシャー。

この語りの仕方でいいの?
見取りでいいの?

そんなことを考える。

 

『学び合い』をやりたがっている、とも言える。でも実は、実践していくうちに、自分の信じるものがあって、自分の中から見えてくるそれは自分が辿っていかないとわからない。

 

 

なるほど、たしかにはじめはこれでいいのか、これが『学び合い』と言えるのか。そんなことを考えていました。いつ頃から自信を持てるようになったのだろうか。

 

ただ、その自信も時折ゆらぎます。

本当にこれでいいのだろうか。

以下西川先生の過去の投稿から引用。

 

 分かりやすい判断基準は以下の通りです。
1) 一人も見捨てるなと子どもに求めているか?
これは実践が進むと「一人も見捨てないのは得だ」となります。そして、私の本だったら「学歴の経済学」、「アクティブ・ラーニング入門」、「サバイバル・アクティブ・ラーニング入門」、「2020年激変する大学受験!」で書いているような今後の社会のことを語ります。
2) 教科の内容を相対的に見られます
『学び合い』は面白い授業、分かりやすい授業を目指しているのではなく、子どもの幸せを目指しています。だから、その教科の蘊奥・奥義を教えることを目指しているのではありません。「その教科の蘊奥・奥義を教えること」を全面否定はしませんが、一人残らず全員の幸せを願うならば、「その教科の蘊奥・奥義を教えること」を持ち出しません。
3) 子どもに任せる時間が長い
子どもに任せる時間は、子どもをどれだけ信頼しているかと比例します。これは自分の限界を理解しなければなりません。そのためには、子どもには多様性があり、全員がその子にあった指導を求めていることを理解しなければなりません。それが理解出来れば自分には無理だと理解出来ます。「でも、子どもに出来るだろうか?」という不安は、『学び合い』は2割の学力的にも高い子どもを納得させ、その子達が6割の子どもを動かし、8割の子どもが残りの2割の子どもを動かすという構造を理解しなければなりません。ただし、校長からの命令で出来ない場合は除外されます。その状況で出来る範囲のことをやればいいのです。
 
 以上は、願い、学校観、子ども観に対応するものです。

 

 

引用終わり。

確かにこの基準はクリアしてるんですよね。

でもその「一人も見捨てない」が何なのか。

「子どもに任せる」とは何なのか。

この辺りが深まっているかどうかわからないんです。なんてったって考え方だから、実体がない。だから、時々「これでいいのか?」と迷うし、悩む。これこそ、『学び合い』なのかなとおもってます。

 

本当の実践者は、いつも道半ば。

これが『学び合い』です!なんて言わない。

おそらく。