おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

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低空飛行

先日から、ずーんと落ち込み続けています。

(あんまり躁鬱の傾向はないとは思っているんですが、もしかしたら多少はあるのか。いや、本気で躁鬱に悩んでいる人に申し訳ないから、ちがうとしとこう)

 

おそらく「周りから承認されているか」を気にしてモヤモヤしているんだと思います。

アドラー的には、完全に他人に振り回されている状態なのですが、どうも心の整理がうまくいかない時のように思います。

 

何のために『学び合い』に力いれてんの。

何のために全国大会の実行委員とかやってんの。

何のためにセミナーとかやってんの。

 

「オオニシさん頑張ってるね」と言われたいのか。

「オオニシさんだからできることだよ」と言われたいのか。

恥ずかしい限りですが、「ちがう」とも言えません。ただ、「そうだ」とも言えない。

ちゃんと自分の信念をもってやらないと、セミナーや『学び合い』はできない。

 

自分の強みってなんなのか。

自分のよさってなんなのか。

自分のできることってなんなのか。

 

snsのいろんな発信を見ていると、どんどん気持ちが落ち込んでくる。

自分には何もできない。(でもなんかしたい)

自分なんか大したことない(でもなんかできることある)

 

 

「いいや、オオニシさんはよくやっているよ」

「いいや、オオニシさんは他の人にはないものを持っているよ」

「いいや、非難する人のことなんか気にするなよ。あなたのよい影響を受けている人はいるよ」

 

そんな言葉をかけてほしいのかな。

いや、そんな言葉のためだけにやっているわけじゃないし、そんな言葉をかけてもらうためにやっているんだったら依存して長続きしない。

 

自分のよさって、おそらく「よっしゃやるぜ」とよくわからないやる気というかモチベーションだと思うんです。大したことはできないし、誰かがついてくるわけでもない。

でもどこから出てくるかわからないエネルギー源があって、それを元に勢いをもつ。それが私。

でも時々不安に思うことがあります。「このエネルギーが切れた時どうなるんだろう」って。

 

今まで教員の仕事を続けて来た時、学級経営や周りの環境が苦しくて逃げたくなる時もあったけど、まだ歯を食いしばって耐えられました。あの時以上のことがあったら、もしかしたらダメかもしれないけど、まだそういうのは頑張れそうな気がします。だって、一人で頑張らなくていいから。

 

でも今回のは、それとは少し違います。

勝手に自分で落ち込んで、勝手にモヤモヤしているだけ。

おそらくsnsが原因なんだろうな。

「すごい」と思う情報を浴びすぎて、どんどん自己肯定感が落ちていった感じ。

自分のエネルギー源をも削るような。

 

少し前は「何くそ!」っていっぱい書き込んだりしたけど、なんかそれも不発に終わった感じ。

結局反応も得られないことを目の当たりして(ほらやっぱり期待している)余計に落ち込んでいたんじゃかな。

 

 

と、自分のことをこうやって文章に書いてみると少し心の安定を取り戻せるのが、私なりの解決方法。

このブログは誰かには読まれているだろうけど、facebook みたいに反応を期待する必要ないから気楽に書ける。でも、やっぱりブログに書くってことは「誰かに見せたい」「誰かに反応してもらいたい」という欲求のあらわれなんだろうけどね。書くだけだったら紙に書けばいいし。

学年合同

学年合同の『学び合い』を行いました。

出張とお休みの先生の代わりです。

私一人で見てよかったのですが、補欠の先生が2名来られていました。

 

お一人は新卒のかた。

お一人は大大ベテランのかた。

 

おそるおそる感想をききました。

さすがとしか言いようがない、コメント。

 

でも、ああやっぱりそう思うかという言葉も頂きました。

 

遅かれながら、私も地道にやってます。

読了

どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ) https://www.amazon.co.jp/dp/406258509X/ref=cm_sw_r_cp_tai_xS0oCbSGRRAE3

 

読み終わりました。

どのような教育が「よい」教育か という問いに対して、

丁寧に、丁寧に考えていく。

まさに哲学なのではないかと感じました。

苫野先生の本は他にも数冊読みましたが、この本で書かれていることは、

それらの本では省略されていることで、結論ばかりを読んでいたことに気づきました。

 

「哲学」と聞くと抵抗がありそうですが、苫野先生はこの本の中で必ずといっていいほど

「つまり」「例えば」と分かりやすく説明をしています。

 

10日間かけてじっくりゆっくり読ませてもらいました。

そして私自身にいくつかの問いを立てることができました。

 

『学び合い』によって「自由の相互承認」の実質化を行うことができるのか。

もしできるのであれば、それはどんな要素をもとにそう言えるのか。

 

苫野先生にお会いするまでに、じっくり考えていきたい。

そのためにもあと何回かはこの本を読まないといけないと思います。

 

問い・・・100マス計算

「100マス計算」に取り組んでいます。への問い

 

なぜ「100マス計算」を取り組むのか。

 

※よく聞く回答

①(基礎)学力をあげるため

② 集中力をつけるため

③自信をつけるため

 

①について

基礎学力とは何か。

なぜ基礎学力をつけなければいけないのか。

単純に考えれば100マス計算で身につく力は「四則演算を速くする能力」ではないか。

それを基礎学力と呼べるのか。

例えば、算数において四則演算を行う場面や、必要な学習は全単元のうちどれほどか。

四則演算能力が必要な学習を大部分を占めているのか。

四則演算は、小学生の間には必要かもしれないが、中学生以降、大人になって必須の能力と言えるのか。

「あった方がいいけど必須ではない」能力ではないか。

 

②について

「集中力」とは何か。

どんな時に必要な能力か。

単純な作業に対する忍耐力とはちがうのか。

そもそも子どもは興味関心のあることには集中するのではないか。

興味関心のないことに対する「集中力」をつける必要はあるのか。

「集中力」が高いと「学力」が高いというのは、テスト勉強する持続力があるということではないか。

すべての子に必要な能力か。鍛えれば身につく能力なのか。

「集中」するには、様々な環境や方法がそれぞれあって、それを見つけていくことも必要ではないか。

 

③について

100マス計算は繰り返し同じことをするので、少しずつ速さは増す事が多い。

速さが増し続けることはない。いつか限界がやってくる。そういう子にさらに先を目指させるのか。

100マス計算に得られた自信=繰り返し練習すれば上達してくる という自信であって、その他の学習能力も向上すると言えるのか。

学習で得られる自信が、子どもの自信すべてといえるのか。

 

 

私は100マス計算に取り組んでいます。

理由。

・学校の教育課程には(算数)情報処理能力を求められるものが多く、それを時間内に達成することが求められることが多いため、それを達成しないことによる自信の喪失をできる限り減らすため。

・同じことを繰り返し練習すれば、上達するという勉強法の一つをつくるため。

・いわゆる「学力向上」の手立てを行なっているという言い訳をつくるため

・毎日2分間〜4分間、授業の前にウォーミングアップをするという習慣づくり。

 

 

100マス計算は、私の「こんな子どもを育てたい」の教育観には当たらない。

自信の教育活動を行う上で、補完的な意味で行なっているため「100マス計算を実践しています」とは堂々というつもりはないし、これによる教育効果に大きく期待はしていない。

 

 

予備校時代⑴

ふと、思い出しました。

大学受験のために浪人した10数年前、管理の緩い予備校に通わせてもらっていました。

(出席確認なし、授業受けるかどうか自由。近くに出席を確認が厳しく、授業も全部出ないといけない予備校もあった)

 

サボって遊ぶとか、バイトするとか、そういう発想はなかったので、とにかく予備校には朝から夜までいました。その間、、授業を受けるか、自習するか、本読むか、休憩するか、全部自由でした。

 

授業は、ライブの講義をビデオ講義に切り替えることも可。

ビデオは時間内なら巻き戻しも早送りも可。

完全に今のネット講義と同じですね。

夏まではライブの講義を受けていたのですが、

知っている内容やつまらない講義をダラダラ受けている時間がもったいないと感じたので、

見切りをつけて、ビデオに切り替えました。

 

講義のない時間は、自習するか、本を読むか、休憩するかなのですが、自分にとって必要な勉強は何で、どれだけの時間かける必要があって、どんな方法で、どんな教材(講義、参考書、ビデオ)が必要か考える必要がありました。

 

ひとまず、予備校についてから何時間は何をやって、何時間は何をやるとか計画を立ててみて実行してみました。しかし、思うようにいかない。その原因は、集中力の持続勉強環境モチベーションでした。

 

つづく。

 

ネタ

若手の頃、いろんなネタを集めている時期がありました。

 

ゲーム

ダンス

 

子どもたちが盛り上がるいわゆる「鉄板」ネタもいくつかあります。いまとなってはネタを使う機会もあまりなければ、集めてもないのですが、突然そういうネタが活用できたりします。

 

例えば、雨で体育が中止になってしまったとか

席替えをして隣同士とぎこちない時とか

お説教して雰囲気が沈んだ時とか

 

ちょっと使うと気分が切り替わります。

今日も使ってみる機会がありました。

しかし低学年なので、鉄板が通用しない、ということも分かり、低学年には低学年に合うネタが必要だということも分かりました。

 

学んだことっていつ生かされるかわからないですね。

 

 

勇気づけ

ああ、なんか今日教えられたよ。

もっと、プラスの言葉を。

もっと励ましの言葉を。

「こんなに成長したよね」

「こんなにできるようになったよね」

という言葉かけがどれだけ必要で、どれだけ足りてなかったのか。

 

教師としての喜びの一つは、

子どもたちの成長だよね。

そりゃあ、長い目で見れば今語っていることは、必要だとは思うけど、

今まさに必要な語りは、子どもたちを勇気づけることじゃないかな、と思った。

 

 

ブログはじめました

福岡の仲間たちがブログをはじめたそうなので、紹介します。

 

ゆるーりしているようで熱く『学び合い』を実践しているS先生↓

「のらりくらり」

https://nakashun05.hatenablog.com/

 

私がリスペクトする一人。水売らせたら右に出るものいない、変化球教師N先生↓

「これが今から普通です」

https://ndaisuke5.hatenablog.com

 

 

『学び合い』の会にやってきた時から、凄さを発揮。学びの質と勢いはピカイチのM先生↓

「学びの車窓から」

http://manabinosyasou.hatenablog.com/

 

みんな本当にすごい方々。

一緒に頑張りたいですね。

 

出だし

あーあ。

あんまりいい出だしとは言えない、半日でした。

困らせたいわけじゃないんですけど、困らせてしまったかな。初日から早速。

口で説明してもわからないものは、わからない。

黒板に書いて説明してもわからないものは、わからない。

「何がちがうか、わかる?」と聞くのが愚問で、

何がちがうかわからないから、まちがえるんだよな。

 

こういうのって、認知っていうんだっけ。

人の認知って、難しいなあ。

特に、低学年。

本当に説明しても、書いても、教えても、

大人が求める理解には至ってないことばっかり。

あーあ、こういう説明の仕方じゃわからないよな・・・

そんな失敗ばっかりです。

 

やっぱり、この年頃の子どもたちに理解してもらうためには、子どもたちの力を借りないと無理だ。

補助輪とヘルメット

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ここ最近考えてきたことまとめてみます。

『学び合い』に付け足すのか、それとも削ぎ落とすのか。

 

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20181231/1546249753

 

足すことで「ハイブリット化」し『学び合い』が「テクニック」レベルになってしまうと、

西川先生も定期的に発信しています。私は本当に気弱なので、西川先生がこのような発信をするたびに「ああ、すみません」という感じになります(笑)

 

「足してはいけないのか」

「足したら『学び合い』ではないのか」

「削ぎ落としたものが『学び合い』なのか」

 

そんな議論はよく起こります。

西川先生の投稿にもあるように、「一人も見捨てない」を願うことが『学び合い』だとすれば、どんな形であれ、「一人も見捨てない」と願えば、それは『学び合い』になる、とのこと。ただ、その質というか、濃さは変わってくるんでしょうけどね・・・それについてはいつかまた書きます。

 

私のことを言えば、私は「ハイブリット」で、「テクニック」レベルで『学び合い』をしていることは多くあります。ただ、色々やるにしても、結局教師の考え方であることに気づき、いきつく先は、「一人も見捨てない」なんだなと思います。そういう意味では『学び合い』をテクニックではなく、考え方で実践をしているのではないかと思います。

 

さて、『学び合い』を実践する時に「足す」という意味で、「教える、教えない」という迷いが生まれると思います。「教える」ことになると、子ども観の「子どもは有能である」「子どもを信じる」に反するのではないか。という迷いです。私も実践を始めたときは、何度もそういうことがありました。

 

課題が終わらなかったとき、子どもが遊んでいるとき、コンパスの使い方がわからず何も学習が進んでいない子がいたとき、ノートが白紙の子がいたとき・・・「信じるとは言ってもなあ・・・、このままでいいのか」そんな迷いがありました。

 

その時は、『学び合い』の本も2冊しかなかったので、そこに書いているようにしました。

できないこと、遊んでいること、白紙の子がいるのをわかっておきながら、子どもたちに語りました。

 

「みんなだったら、できるようになるよ」

 

そうすると、かなり時間はかかりましたが、子どもたち同士で解決できることが増えました。ノートに書き出す子が増えて、遊ぶ子がどんどん減りました。本に書いている通りに行ったら、子どもたちはどんどん私が不安に思っていることを自分たちで解決できるようになりました。「ああ、これが子どもは有能だ、ということか」と思いました。

 

しかし、次の年に同じように子どもたちに任せていると不満が私のところに来ました。

「先生は教えない」

「ノートが白紙で帰ってきている」

「わからないまま、教室で一人ぼっち」

というような内容でした。

私はこの状況は時間させあればきっと解決できると思っていました。

(私はこの状態を「一人も見捨てない醸成期間」と考えていました)

 

結局、子どもたちと話し合って『学び合い』を半ば強引に続けていき、子どもたちが成長していくにつれ上に挙げたような問題は解決できていきました。周りの理解も得られました。

 

その時の2年間は色々付け足すことなく、子どもたちをとにかく信じて任せて、粘っていました。「一人も見捨てないことを諦めない」そんな感じだったと思います。そして、子どもたちが変わっていく様に何度も感動していました。「『学び合い』はすごい!」と思い、実践にも少しずつ手応えを感じられるようになりました。

(今考えればとても危なかっしい2年間の実践だったと思います。今では絶対こんなことはできません。が一番濃く「一人も見捨てない」を願い続けた2年間であったとも思います。)

 

それから、学校が変わって、新しい同僚、子ども、保護者がいる中で『学び合い』を実践することになりました。なんといってもその時の最大の命題は「『学び合い』を続けること」

子どもたちや保護者に不安や不満を持たれないことが周りの同僚にも理解を得られることだと感じてスタートしました。そうなってくると、色々付け足します。

 

子どもたちが安心して繋がることができるようにしたり、はじめて使うものに関しては、(できる子がいても)教えたり、課題も毎時間達成できるような内容にしたり、

 

完全に「ハイブリット」の『学び合い』だったと思います。しかし、「一人も見捨てない」「子どもは有能である」という軸はブレていなかったと思います。それは、それまでの2年間の実践があったからです。

「今は、色々手をかけているけど、きっとこの子たちもどんどん成長して、付け足しているものもいらなくなるはずだから、そのうち外していこう」そのように考えていました。

 

そう、今回のタイトルである

「補助輪」

です。

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自転車が真っ直ぐ進めるようになるまでは、補助輪を使って練習する子もいますよね。

そうすると子どもは安心して自転車に乗ることができます。でも、いつかは外す時がくるでしょう。

 

その年は、補助輪を外すどころか、自転車に羽つけたり、エンジンつけたような子たちになってしまったんですけどね・・・もう私の想像も及ばないことを色々してくれた今考えればなかなかユニークなクラスでした。

 

さて、それからはじめは、「補助輪」をつけることで『学び合い』を実践することになったわけですが、だんだん、「補助輪」が取れた後は、で「エンジン」や「羽」を私がつけるようになりました。具体的には「ホワイトボードいいね」とか「座席配置かえようか」とか「単元をまるごと任せてみようか」とかです。

 

自分としては『学び合い』を実践しているつもりですし、「一人も見捨てない」を忘れていたわけではありません。子どもたちは楽しそうに学んでいるし、活発に動いている。でも何か違う・・付け足せば付け足すほど、肝心の勉強がわからなくなってしまう子がいたのです。周りの子どもたちは色々付け加えられるものに目がいって、どんどん動くし、勉強するのですが、肝心の「一人も見捨てない」がおざなりになっている。それに気づいて語ってみるものの、なかなか変わらない。結局それがどうしてかわからないまま、その学期が終わりました。そして振り返ってみて気づきました。「色々付け加えること」が目的になっているということ。

『学び合い』をすることが目的になっていることでした。

 

西川先生がおっしゃっているのは、もしかしたら、上のような状況のことを指しているのではないかと思います。「一人も見捨てない」を粘り強く求めていくには、かなりの覚悟と忍耐が必要です。そして多くの「リスク」を伴います。「リスク」は『学び合い』そのものを否定される可能性も十分あります。そのための「補助輪」なのではないかと思います。でも「一人も見捨てない」を目指していくはわけでもない、付け足しは「補助輪」どころか、「ブレーキ」にもなりかねません。

 

「今は、補助輪をつけている時期。でもいつかは外していくぞ」という意味で「付け加える」ならあり。

「『学び合い』をもっとよりよくしたい、じゃあこれを増やしていくぞ」という意味で「付け加える」のは気をつけてね。そんなことじゃないかな、と思います。

 

 

さて、長々と書いたわけですが、

補助輪のほかに、「ヘルメット」と書いていますね。どんなに「子どもたちは有能である」と考えて、子どもたちに任せて、粘り強く見守っていくといっても、教師が、大人が守らないといけないことがあります。

それは子どもの心と体です。

危険は排除しましょう。人権侵害は止めましょう。怪我しない、心が傷つかないは大前提です。そのための「ヘルメット」はいつもかぶっておかないといけないと思います。

 

自戒の意味もこめて。

冬の#あたり前さがし おわり。