補助輪とヘルメット
ここ最近考えてきたことまとめてみます。
『学び合い』に付け足すのか、それとも削ぎ落とすのか。
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20181231/1546249753
足すことで「ハイブリット化」し『学び合い』が「テクニック」レベルになってしまうと、
西川先生も定期的に発信しています。私は本当に気弱なので、西川先生がこのような発信をするたびに「ああ、すみません」という感じになります(笑)
「足してはいけないのか」
「足したら『学び合い』ではないのか」
「削ぎ落としたものが『学び合い』なのか」
そんな議論はよく起こります。
西川先生の投稿にもあるように、「一人も見捨てない」を願うことが『学び合い』だとすれば、どんな形であれ、「一人も見捨てない」と願えば、それは『学び合い』になる、とのこと。ただ、その質というか、濃さは変わってくるんでしょうけどね・・・それについてはいつかまた書きます。
私のことを言えば、私は「ハイブリット」で、「テクニック」レベルで『学び合い』をしていることは多くあります。ただ、色々やるにしても、結局教師の考え方であることに気づき、いきつく先は、「一人も見捨てない」なんだなと思います。そういう意味では『学び合い』をテクニックではなく、考え方で実践をしているのではないかと思います。
さて、『学び合い』を実践する時に「足す」という意味で、「教える、教えない」という迷いが生まれると思います。「教える」ことになると、子ども観の「子どもは有能である」「子どもを信じる」に反するのではないか。という迷いです。私も実践を始めたときは、何度もそういうことがありました。
課題が終わらなかったとき、子どもが遊んでいるとき、コンパスの使い方がわからず何も学習が進んでいない子がいたとき、ノートが白紙の子がいたとき・・・「信じるとは言ってもなあ・・・、このままでいいのか」そんな迷いがありました。
その時は、『学び合い』の本も2冊しかなかったので、そこに書いているようにしました。
できないこと、遊んでいること、白紙の子がいるのをわかっておきながら、子どもたちに語りました。
「みんなだったら、できるようになるよ」
そうすると、かなり時間はかかりましたが、子どもたち同士で解決できることが増えました。ノートに書き出す子が増えて、遊ぶ子がどんどん減りました。本に書いている通りに行ったら、子どもたちはどんどん私が不安に思っていることを自分たちで解決できるようになりました。「ああ、これが子どもは有能だ、ということか」と思いました。
しかし、次の年に同じように子どもたちに任せていると不満が私のところに来ました。
「先生は教えない」
「ノートが白紙で帰ってきている」
「わからないまま、教室で一人ぼっち」
というような内容でした。
私はこの状況は時間させあればきっと解決できると思っていました。
(私はこの状態を「一人も見捨てない醸成期間」と考えていました)
結局、子どもたちと話し合って『学び合い』を半ば強引に続けていき、子どもたちが成長していくにつれ上に挙げたような問題は解決できていきました。周りの理解も得られました。
その時の2年間は色々付け足すことなく、子どもたちをとにかく信じて任せて、粘っていました。「一人も見捨てないことを諦めない」そんな感じだったと思います。そして、子どもたちが変わっていく様に何度も感動していました。「『学び合い』はすごい!」と思い、実践にも少しずつ手応えを感じられるようになりました。
(今考えればとても危なかっしい2年間の実践だったと思います。今では絶対こんなことはできません。が一番濃く「一人も見捨てない」を願い続けた2年間であったとも思います。)
それから、学校が変わって、新しい同僚、子ども、保護者がいる中で『学び合い』を実践することになりました。なんといってもその時の最大の命題は「『学び合い』を続けること」
子どもたちや保護者に不安や不満を持たれないことが周りの同僚にも理解を得られることだと感じてスタートしました。そうなってくると、色々付け足します。
子どもたちが安心して繋がることができるようにしたり、はじめて使うものに関しては、(できる子がいても)教えたり、課題も毎時間達成できるような内容にしたり、
完全に「ハイブリット」の『学び合い』だったと思います。しかし、「一人も見捨てない」「子どもは有能である」という軸はブレていなかったと思います。それは、それまでの2年間の実践があったからです。
「今は、色々手をかけているけど、きっとこの子たちもどんどん成長して、付け足しているものもいらなくなるはずだから、そのうち外していこう」そのように考えていました。
そう、今回のタイトルである
「補助輪」
です。
自転車が真っ直ぐ進めるようになるまでは、補助輪を使って練習する子もいますよね。
そうすると子どもは安心して自転車に乗ることができます。でも、いつかは外す時がくるでしょう。
その年は、補助輪を外すどころか、自転車に羽つけたり、エンジンつけたような子たちになってしまったんですけどね・・・もう私の想像も及ばないことを色々してくれた今考えればなかなかユニークなクラスでした。
さて、それからはじめは、「補助輪」をつけることで『学び合い』を実践することになったわけですが、だんだん、「補助輪」が取れた後は、で「エンジン」や「羽」を私がつけるようになりました。具体的には「ホワイトボードいいね」とか「座席配置かえようか」とか「単元をまるごと任せてみようか」とかです。
自分としては『学び合い』を実践しているつもりですし、「一人も見捨てない」を忘れていたわけではありません。子どもたちは楽しそうに学んでいるし、活発に動いている。でも何か違う・・付け足せば付け足すほど、肝心の勉強がわからなくなってしまう子がいたのです。周りの子どもたちは色々付け加えられるものに目がいって、どんどん動くし、勉強するのですが、肝心の「一人も見捨てない」がおざなりになっている。それに気づいて語ってみるものの、なかなか変わらない。結局それがどうしてかわからないまま、その学期が終わりました。そして振り返ってみて気づきました。「色々付け加えること」が目的になっているということ。
『学び合い』をすることが目的になっていることでした。
西川先生がおっしゃっているのは、もしかしたら、上のような状況のことを指しているのではないかと思います。「一人も見捨てない」を粘り強く求めていくには、かなりの覚悟と忍耐が必要です。そして多くの「リスク」を伴います。「リスク」は『学び合い』そのものを否定される可能性も十分あります。そのための「補助輪」なのではないかと思います。でも「一人も見捨てない」を目指していくはわけでもない、付け足しは「補助輪」どころか、「ブレーキ」にもなりかねません。
「今は、補助輪をつけている時期。でもいつかは外していくぞ」という意味で「付け加える」ならあり。
「『学び合い』をもっとよりよくしたい、じゃあこれを増やしていくぞ」という意味で「付け加える」のは気をつけてね。そんなことじゃないかな、と思います。
さて、長々と書いたわけですが、
補助輪のほかに、「ヘルメット」と書いていますね。どんなに「子どもたちは有能である」と考えて、子どもたちに任せて、粘り強く見守っていくといっても、教師が、大人が守らないといけないことがあります。
それは子どもの心と体です。
危険は排除しましょう。人権侵害は止めましょう。怪我しない、心が傷つかないは大前提です。そのための「ヘルメット」はいつもかぶっておかないといけないと思います。
自戒の意味もこめて。
冬の#あたり前さがし おわり。