おに先生のブログ (noteに引っ越しました)

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教材研究

先日した教材研究の仕方です。(国語の物語文)

 

1.まず読む。声を出せる場所なら声に出す。

 

2.学習指導要領の何を規準にするのか、教科書の指導書や

  解説書を参考にして、見通しを持つ。インターネット上の

  指導案を読む。

 

3.教科書の最後の設問を確認し、この設問を行が何を狙って

  いるか確認する。業者テストで問われている問題を確認する。

 

4.言語事項(新出漢字や文法)、意欲関心態度、話す聞く、

  書く、読むをどのように評価するのか決め、基準をある程度考える。

 

5.本文と問題が一緒になった学習プリントを作成する。

 

  大まかにいえば、こんな感じです。インターネット上の指導案や、

  本屋に売っている物語教材の指導書などを読むと、とにかく、

  「どのように教えるか」ばかりです。

 

  ペープサートを使う、劇化する、挿絵を使う、模造紙を使う…

  まあとにかく、準備だけでも大変そうです。

  

  私はそんなことは一切しません。

  まあそもそもめんどくさがり屋からなんですが、

  そんな時間は私にはない!

 

 

  だからこそ、子どもたちが教材を通じて、何を学び、どんな力を

  身に着けるのかを考え、どのように評価するかをじっくり考えます。

  時間はかかりますが、最低限必要な時間だと考えています。

 

  少なくとも、昔の私のように、教具ばかり作っていた時間に比べたら

  断然少ない。

 

  というわけで、一年生の物語教材のプリント作成が終わりました。

  どんな学びになるのかな…楽しみです。

 

 

実践者からの気づき

今、私が参加してる『学び合い』の会で注目されている『学び合い』実践者のブログです。

 

http://e-chigoya.hatenablog.jp/entry/2017/10/01/000734

 

そうそうそれ!ということを、とてもわかりやすい言葉で言語化しています。

 

以前「教師の個別の評価は良くないのではないか?」という疑問が一時期ありました。

 

子ども同士で相互評価していると、どうしても抜けや漏れがあったり甘くなったりしがちです。評価を教師がやったところで、完璧かといえばそうではないんですが、子どもたちが評価できるようになるまで、と思って個別の評価を行ったことがありました。

 

同時に、『学び合い』の観「子どもは有能である」に矛盾するのでは、という考えが頭を離れず、モヤモヤしながら取り組んでいました。

 

でもやはり、子どもたちが評価できるようになるには、タイムラグがあります。その間を埋めずに、高まるリスクのことを考えたら、やはり個別評価は必要だろう、ということで、自分を納得させていました。

 

私が行ったのは、社会科の思考・判断・表現の観点の達成を目標とした、記述式の課題です。

文を素早く読んで、評価するという作業が必要なので、私が評価を行っていました。

 

くふうしたのは、何が良くて何が良くないかを、はっきり伝えなかったことです。「はい、これは△」と言うだけで突き返していました。

 もちろん、評価者である私は基準を持っています。基準に当てはまらなければ、もう一度というように、どんどん評価するわけで。

 

困った子どもは、どうすれば良いのか、周りに聞くことになります。また、できる子は、何が必要なのか見抜くことができるようになります。

 

子どもたちの様子を見ながら、少しずつ課題のレベルを調整し、時々、相互評価する機会ももたせながら行ってました。教師の個別評価とは異なり、相互評価する時は、評価基準を明確にしておきます。(とはいっても難しい)

 

が、今日このブログを読むまであまり自信が持てずにいました。あくまでもモヤモヤしていたものだったので、言語化できていなかったのです。

 

実践者のブログを読むと、発見があってとてもいいですね。私もその1人になりたいです。

 

反省した週末

「今日こそは!」と心した週末の一日。

相変わらずやることが多くて、イレギュラーが多くて、慌ただしかったけど、いつもよりは

よかった気がします。

 

「静かにしよう」ということを言わず、待ってみる。

 

「〜まで終わらせないと」を「まぁ、いいか」と思う。

 

無理矢理でもニコニコしてみる

 

そんな一日でした。

これが意識しなくてもできるレベルにならなければいけないなと思います。

 

来週も頑張ろう。

そうできるように、土日は準備を少し進めます。

反省につぐ反省

自分の器のなさ、心の狭さに、いつもいつも反省します。

反省して、「今日こそは」と思うのですが、また失敗します。

 

対策は考えているんです。

いろいろな対策をしています。

余裕が持てるようにしています。

でもうまくいきません。

 

子どものせいにすればいくらでもできます。

仕事の忙しさを理由にすればいくらでもできます。

でもそれらが解消されたとしても、劇的に変わるとは思えません。

結局のところ、自分の人間性の問題なんです。

 

日々、ちょっとずつでも進歩したいと思ってはいるんですが、

結局、いつもいつも自分の課題だと思っていることをしてしまうんです。

 

先日、子どもに言われてしまいました。

「先生は、お客さんが来ている時は優しいけど、いないときは、怖い」

怖がらせるようなことはしているつもりはありません。

いつも怒って、怒鳴り散らすようなどこかの教師のようなことはしていません。

安全に関わる話や、暴力に関することについては、少し強めに言うようにしていますが、いつもいつもじゃないと思います。

 

結局、私の課題だと思っていること

言葉かけや表情なんかだと思います。

 

解決策は簡単なんです。

「笑うこと」

 

やろうとしてもできない。本当にこれが悔しい。悔しくて仕方がない。

そんなことを考えていたら、もう半年過ぎてしまいそう。

子どもたちは成長しているのに、自分は成長しているのか。

どんどん否定的にとらえてしまいます。

 

 

「今日こそは」

そんな気持ちで教室に向かいたいです。

地域とのつながり

今日は、一年に一回の学校集会

 

学年縦割りのグループを作って、子どもたちがウォークラリー形式で

様々なゲームをして遊びます。地域のお年寄りも20名ほど参加し、一緒にゲームを行います。

 

子どもたちはこの行事を楽しみにしています。

やってみるととても楽しそうです。

異学年との交流も、この一回限りなので、貴重な行事です。

 

 

しかし…

準備が大変です。

 

ゲームの準備

子どもたちへの指導

先生たちへの提案とお願い

地域の方との打ち合わせ

ゲームの説明ビデオの作成

雨天時の対策

 

などなど7月から取り組みはじめました。

しかも担当は私ともう一人だけです。

 

みんなで仕事を割り振ろうとしたいところですが、

昨日は5年生、明日は6年生が授業研

他の学年も暇なわけないので、誰にも仕事をふることもできません。

 

もちろん、地域の方々にも迷惑かけれられないので、十分な準備を行うとなると

もう、私一人でいろいろ準備するしかないし、そっちの方が効率がよいです。

 

結果、準備に相当な時間を要し、結局余裕をなくし、

学級の子どもたちに波及するという残念な結果になってしまいました。

もう本当に反省しかありません。

 

働き方改革とか、仕事量を減らせとかいろいろ聞くけど、この行事をつぶすくらいの覚悟がないと、変わらないんだろうなと思いました。それは地域とのつながりを切るということです。

そして、私にはこの行事をつぶす勇気も行動力もありません。

 

せめて、どうやってシンプルにできるかを考えて、来年に引き継げたらいいなと思いました。

 

 

別にいいんじゃないの

私は休み時間は、好きにしたらいいと思っています。

友達と思いっきり遊んだらいいと思っています。

特に低学年はそれでいいんじゃないかなと思います。

 

遊びの中から学ぶとか、友達と過ごす貴重な時間とか、形の見えない経験を得る時間だという考えもあると思いますけど、その前に誰だって休憩したいでしょ。ちょっとくらい。

 

私も休憩したいですよ。のんびり。

子どもたちと触れ合ったり、片付けしたり、ぼーっとしたり…。

 

学校ってなんか追われてるんですよね。子どもも、教師も。

休み時間までわざわざする課題をする必要あるのかなあ。

別にいいんじゃないの って言えないのかなあ。

 

ああ、余裕のなさからいろんなところにしわ寄せがきていることを実感しているので、少し機嫌悪いです。なんでこんなに雑務が多いのかしらねえ。

 

 

 

「分かる」ということ

一年生を担任して「わかる」とは、どんなことなのか、子どもたちの様子から

ずっと考え続けてきました。

 

「~を理解できるようになる」

「~を説明できるようになる」

「~が分かる」

 

『学び合い』では、このような課題を出すことが多いです。

私も実際にこのような課題を出してきました。

「3人以上に説明して、納得してもらったらサインをもらう。できなかったら改良して、他の人に聞いてもらう」など、細かいことも指示していました。

 

中学年~高学年では、これでもなんとかなりました。

それは子どもたちなりに「分かる」というものが何なのか、認識していたからだと思います。また、その「分かる」はテストの点数につながることも、子どもたちは認識していたと思います。

 

しかし、1年生に「分かる」ということは何なのか、全然伝えられないし、子どもたちも納得できないままでいました。1学期の『学び合い』はその確たるもの。

答えのプリントを置いておいても、間違いをそのまま〇にしていたり、〇にしているけどよくわかってなかったりすることが何度もありました。

 

「説明できる」という課題にしても、ただ書かれた文章を読むだけ。

「納得してもらう」というのも適当にサインを交換するだけ。

 

これは非常に考えました。

ある時、「先生もう一枚ください」とプリントを取に来る子がいました。

自分でやってみるというのです。その時私はこれだ!と思いました。「分かる」というのは「自分でできる」ということなんだ、と。

 

1学期末、ひらがなの「は」「を」「へ」の使い分けを考えるプリントを『学び合い』の課題にしました。そして「プリントを〇つけしたあと、もう一度自分で同じプリントをしてみて分かったかどうか確認してみたら?」と提案して『学び合い』をはじめてみました。

 

すると、数名の子が何度も同じ問題を解いては何度も間違えます。

その時、ああなるほど。と思いました。「子どもたちの『分かる」ってそんな簡単なものではないんだ。少しずつ身についていくものなんだ」と。

そして、このように自分で「分かる」まで同じ問題を解き続けるような

「自分は~が分からない」という認識が持てるようになることが必要だと思いました。

 

ならば、「あなた分かっていないよ」と気づかせてあげるのは、誰か。

それは、子どもたちだと思います。もちろん、教師が言ってもいいのですが、30人近くの理解度を調べたところで、ものすごく時間がかかります。結局、子どもたちがお互いに相互評価できるようになることが「分かる」へつながるんだと思いました。

 

このように一年生を担任して

「分かる」というのは、「自分でできる」「分かっているか相手に説明できる」ことなんじゃないかなと思えるようになりました。

 

これは、高学年を担任していた時には、気づかなかったことです。

結局のところ、本などで紹介されている「〇人に説明できるようになる、納得してもらったらサインをもらう」に行きつくことになるのでしょうけど、何となくこの課題を出すことと、「分かる」とは何か、意識して課題を出すことは全然違うんじゃないかなと思いました。

 

今日の気づき

今日は『学び合い』の会

 

気づき備忘録

・自分の考えと、学級の状態、感動する話をくっつけてお便りを出すべき

 

・子どもの行動をやっぱり受け入れて、笑う

 

・子どもは自分の都合のいいように親に言う。

そういうリスクマネジメントをしなければいけない。特に低学年は、子どもの後ろに親の姿が見える。

あの頃とはちがう

今週、久しぶりに数名の子どもたちと遊びました。

昼休みに少し余裕があったからです。

子どもたちはとても楽しそうでした。

 

いつもの私の昼休みは宿題の丸付けをした後、お便り作ったり、プリントを印刷したり、高学年の委員会の仕事をしたり…ということをしています。本当はその仕事を別の時間にして、子どもたちと遊んだりすることに使った方がいいでしょうけど、残念ながら、今の私にそんなに残業できる余裕はありません。

 

まだ独身で、若手の頃はよく子どもたちと外で遊んでいました。子どもたちを下校させた後、お便りを作ったり、教材を作ったり…今私が昼休みにやっているようなことをしていました。残業する時間は長くはなってしまっていたけど、家に帰ってからも余裕があるので、あまり気になりませんでした。

 

ふとその頃のことを思い出しました。

もちろん、ライフスタイルが変わってしまったから、同じようにはできないんでしょうけど、子どもたちはどう感じているのかなと思いました。子どもたちは勉強よりも、課題よりも先生や友達と一緒に遊ぶことの方が、楽しいだろうなあと思いました。

私は、子どもたちにとって何が大切か、ということを一生懸命時間内に実行しているわけですが、当の子どもたちは、もしかしたら満足していないのかもしれません。

私がやっていること、教えていること、させていることなんかより、一緒に遊んだほうが、ずっと子どもたちにとっては喜ばしいことかもしれません。

 

もし、来年彼らが私よりも若い先生が担任になって、たくさん遊んでもらって、

「先生大好き」となれば、私のことなんてすっかり忘れてしまうでしょう。

でもそれでもいいと思っています。

私は、私の立場で、子どもたちにできることをしたい。

遊んで子どもたちとの関係を作るのではなく、授業の中で行いたい。

 

まあそれでも、その授業の質をよくしようと思うばかりに、余裕がなくなってしまうのは、本末転倒なのかなとも思います。

 

ああでも、来週はもうちょっと遊ぼうかな。

ちょっと子どもたちと距離がありすぎていて、自分自身がさびしくなってきたのかもしれない。