自分が見ているものが、正しい、というわけではないけれど、
自分が見ているものは、ある人にとっては「見えてないもの」なんだろうな、と思います。
もちろん、逆もしかり、だけど。
『学び合い』の授業を通じて、集団の動きをいつも見ていたからか、
「ああ、こういう集団か」とか
「あの子は今どういう状態か」とか
そういう物の見方をするようになったと思います。
その見方で、いろんなクラスや、子どもたちを見ていると、
時々不思議な気持ちにもなります。
「何で何とも思わないんだろう」と。
「何でここで声をかけないんだろう」と。
でもこれって、研究授業でもよく思っていたことでした。
多くの先生は、
板書がどうだ、とか
発問がどうだ、とか
教材がどうだ、とか
私があんまり重視していないところに、目がいく。
「え、そんなことを追求して何になるの?」と思うほど。
別に自分が特別でも、正しいとも思わないけど、
見ているものが違うんだろうな、と感じました。
そのような「見え方の違い」に対して、イライラしても、変えようとしても
意味がない、ということは、最近わかりました。だから、それに合わせようとも思わないし、
口を出したくなっても、放っておきます。自分も関わることになったら、それとなく関わっているふりをする。
だけど、全く無関心というわけではありません。
ここぞという時に、「子どもの幸せを願う」ことだけは、語っていきたい。