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「一人も見捨てない」の力

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『学び合い』では「全員達成」「一人も見捨てない」を求めます。これは子どもたちに課した「ミッション」であり、心情を超えた「損得」での行動指針であると考えています。

 

どうしても「一人も見捨てない」という言葉から「困っている子を助ける」とか「誰も置いていかない」とか道徳的な心情だったり、理想の姿だったりを連想することが多いと思いますし、私自身もそう考えている部分もありますが、それだけではない、と思います。

 

「困っている子を助ける」とか「誰も置いていかない」とかは決して「一人も見捨てない」と願わずとも、学校や家庭で教えられることでもあり、子どもたちのなかにある程度備わっていることだと考えています。幼稚園保育園や、小学校低学年の子たちが自然と助け合っている姿を見ると、それをより感じます。

 

「一人も見捨てない」の目指す姿が、上記にとどまるならば、わざわざ「一人も見捨てない」という言葉を使う必要はないでしょう。でもあえてこの言葉を使うのは、心情をこえた行動を求める力があるからだ、と思います。

 

小学校高学年なら顕著になりますが、子どもたちは「人を選んで」助けたり、声をかけたりします。選ぶ対象は「仲がいい」「同性」「周りから好かれている」が主ではないか、と思います。逆にいえば、そうでない子にはわざわざ関わったりしない。みて見ぬふりをしたり、関わったとしても諦めてしまう。異性の関わりが一番分かりやすい例でしょう

 

「困っている人に勉強を教える」レベルで関わりを求めても、「異性」や「仲の良さ」を超える行動はそんなに簡単にできない、と思います。

高学年の子たちが「グループ化」するのは当然ですが、グループの「壁」はなかなか厚く、それによる弊害も起こりえます。

 

しかし、「一人も見捨てない」はそのような「壁」を突破する力を持つ、と思います。

突破というと少し勢いがありすぎかもしれませんが、言葉自体に力があるというよりも、「困っている子を助けやすい」「誰も置いておかないほうがいい」という空気感や「助け合うのが当たり前」という文化が子どもたちの中に生まれると思います。

 

ただ、この「一人も見捨てない」文化は、低学年ならすぐに広がるのに、高学年になるとちょっとやそっとじゃ、広まりません。

毎日「全員達成」を目指し、少しずつ少しずつ、「こういう行動したほうがいいんだ」ということを、徳ではなく「得」、理屈で学んでいくことで、

変わっていくのではないか、と思います。

 

もうすぐ10月になります。私が高学年を持った時は、10月から11月にクラスで色々とトラブルが起きました。

修学旅行や宿泊学習も関係しているでしょう。私の見えないところで、人間関係に偏りや淀みが生まれてきたんだと思います。

でも、1学期から少しずつ土台を作っていたら、そのトラブルも乗り越えられる、と思います。

 

そんなトラブルに気づけるか、気づかないままか。それは先生の「見取り」次第ですが、

私は気づいた方がいいし、乗り越えた方がいい。と思います。

何もない方が、危険だ、と思います。