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「何のために」書くのか

 

このTweetに対し

 

・他者に伝える際に必要な文章を構築する力をつけるため

・文章を要約したり、推敲したりする力をつけるため

・自身のことを客観的に見つめるため

・記録として残すため

・教師が評価するため

 

 と回答しました。

その場で考えて思いついたことを書いたまでですから、「こうだ」ということには自信がないですけど、すぐに答えられないことは本物ではないと思うので、後からこの回答を吟味してみようと思いました。

 

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私自身、おそらく新任の時から「作文」には力を入れてきたと思います。

はじめは、一人ひとり添削をしていて、それを待つ子たちがワーワー言って騒ぐ、ということをやってしまっていましたが、最近ではそうならないように工夫しつつ、添削は続けています。なぜそのように続けてきたかというと、

 

「他人が読める文章を書く」ということは、表現力と思考力を鍛えることができると考えるからです。

 

私の経験上、「かしこい」子は、文章が「きれい」だと思います。「きれい」というのは、構成が「見えて」「読みやすい」と考えます。

国語の説明文の学習は、題材を読んで「構成」を学ぶようにできています。中身を丁寧に指導する実践もありますが、さっさと文章の内容から離れて、「骨組み」を学ばないと、時間なくなっちゃうでしょ、といつも思います。

 

まあそれはさておき、そのように文章の構成を学び、自分の作文に生かしていく、これが説明文で学ぶことだと考えますし、教科書もそのように作られていると思います。

 

しかし、「きれい」な文章を書くのは容易ではありません。自分の文章をなんでも見直し、書き直し、考える必要があります。ある意味「タフさ」が必要です。ですから、まずは「書くこと」に対して抵抗感をなくしてから、このような学習を行う方がいい、と思ってもいます。

 

さて、「きれいな」文章を書くには、教師が「何が」「きれい」かを選別できるようにならないといけません。子どもが書いた文章を読んで「よく書けたね」は低学年までです。「ダメ」と一言で突き返せて、それでも分からなければ具体的に教えられるくらいにならないといけないでしょう。個人的なことを言わせてもらえば、それができるようになるためには、子どもの作文をたくさん見る「訓練」を積まないとできないです。

 

幸い僕は、学生時代に文章を書くことに結構苦労したので、新任の頃から作文を見る能力は一通りありました。子どもが書いた作文をパッと読んで、何が足りないか理解できます。おそらく何年か学校の先生していたら、身につく能力だと思います。

 

上にも書いたように、最初は丁寧に読んで解説していましたが、ある時からこの作業の効率の悪さに気づき、「よし」「ダメ」だけ言って、ダメなら返すという方法をとるようにしました。そして、授業の終わりに作文を回収して、ポイントをふせんに書いて、はってわたす、ということをしていました。時間はかかりますが、授業中にワーワーなるよりマシと思っていました。

 

サッと読んで、ポイントを書いてわたす、というのは案外自分も頭を使うので、思考力のトレーニングと思えば、結構できました。いつやっているんですか、と聞かれたら「あいた時間」と答えていました。宿題を見るより、断然大事なことだと思っています。

 

もちろん、ポイントを書いたふせんを貼ったところで、それを見て改善できるのは一部で、

また同じように、ダメとなる作文を書いてくる子がたくさんいます。そのために、

「先生は何がよくて、何がダメなのか」理解できる子がクラスに数名いる、または作る必要があると思います。このような子がクラスにいると、個別に指導をしてくれます。(その前に、学び合うクラスになっていないといけないのですが)

 

次第に、先生が求める「きれいな」文章がどの子も書けるようになる、というのが僕の実践であり、経験です。

 

さて、なぜ「きれいな」文章を書けるようになることを僕は目指すのか。

本当はそこの部分を書かないといけなかったのですが、前置きがずいぶん長くなってしまいました。そう、このように書いていると、頭でっかち、中身なし、なんてことはたくさんあるんですね。だから自分の書いた文章の全体をみわたして、どんな構成になっているかを考え、修正する、という行為が「思考力」につながると思いますし、「これは他人が読んでも言いたいことは伝わるのか」というのは「表現力」だと思います。地味なことですが、この二つの力は、大人になっても使う能力だと思います。手で書こうが、タイピングだろうが同じです。

 

会話のように、後先考えずに表現することもたくさんありますが、

発表のように、全体の構成を考えて話すこともあります。

僕が身につけてほしい能力は、後者です。

 

それ以上に、「頭を使う」という知的な時間は、快感だと思うんですよね、人間だから。

「書けない子もいる」のではなく、「書く気を失わせた」というのが正解なのでは、と思います。私の5歳の息子も、勝手に「書いて」いますよ。これを見る限り、人間は「書いて表現したい」生き物ではないか、と思うんです。