ドラゴン桜とか教員採用試験とか
社会人になって十数年。
今更、どこの大学や高校でたとかどうでもよくなってます。
教員ならなおさらかもしれません。
出身の大学や高校よりも、その人がどんな能力があるか、の方が大事。
僕は高校も大学も受験勉強に相当力を入れましたが、結婚した相手は、
全然そんな経験もない人。多少は勉強したかどうかが影響する部分もあるけど、
支障はないレベル。
最近、ドラゴン桜2のドラマを観ていて、自分の受験勉強時代のことを思い出しました。
私は、高校現役の頃は、どう考えたって受かるはずのない大学の学部を前期・後期と受け、
見事に不合格。浪人生活を経て、再度チャレンジするも、不合格。
仕方なく、「滑り止め」として受験した教育大学に合格し、そのおかげで小学校の教員
やっています。
ドラゴン桜の登場人物たちが、メキメキと実力をつけていく様を見ると、妻が「こんなに簡単に実力あがるものなの?」と言っていたので、私は「こんなに簡単に上がらない」と答えました。あくまで私自身の経験ですが、受験勉強はそんなに甘くない。スピードも、理解も、思考力も、ありとあらゆる力が試されます。単純に「コツさえつければ点数があがる」というものでもない。人間ですから、精神的にも左右される部分あるし、人によって勉強の能率に違いがあります。
私は間違いなく「集中が続かないタイプ」なので、場所を変え、気分を変え、方法を変えないと勉強が進まないタイプです。今はそれを理解しているので、うまくやっていると思いますが、当時は自分にとって合う方法を探るだけで時間がかかっていました。
また、浪人をした時に受けた授業で自分がいかに無謀な挑戦をしていることに気づきました。
ちょっとやそっとの努力でなんとかなると思えず、自分の能力には限界があると思いました。
それでも「夢を諦めない」なんて言葉が飛び交う環境にいたものですから、結局不合格、だったと思います。
ようやく進学した先の教育大学でまず最初に驚いたのが、受験勉強をそんなにしていない人たち。センター試験って何ですか。受験勉強って何ですかといういわば「要領のいい」人たちがたくさんいました。正直当時は、「こいつらと一緒になりたくない」と思っていました。
「教員なんてくそくらえ」と思っていました。
「自分は違う、自分はここにいるべきではない」と思い、編入を試みたり、他大学のサークルに顔を出したりしていました。
しかしそのうちに、受験勉強なんかで測れない、人間性みたいなもので自分が劣っていることに気づき始めました。ユーモアもない、趣味もない、何か特別な能力があるわけでもない・・・結局、その大学の、一番近いメンバーが自分にとって一番必要な人たちだということがわかりました。
その時に「受験勉強をしてきた自分」から解放されたように思います。
幸い、受験勉強をしてきた経験は、学校の教員になってからも生かされる部分は多く、
教員採用試験の勉強は「楽勝」でした。
何が「楽勝」なのかというと「勉強すればいい」から。
私は卒業論文が不可になって半年留年し、卒業後、無職生活をさまよいました。
その時に心の支えが「勉強」でした。それも教員採用試験のような「答えがある」勉強です。
「頭悪いから教員採用試験うからないんだよね」
ということを言う人に何回か出会いましたが、馬鹿じゃないのと内心思っていました。
「勉強すればいい」それだけです。試験なんて。
ドラゴン桜でも同じようなことを言ってたと思います。
試験なんて受かればいい。受かった後どうするか、です。
最近、教員の数が足りなすぎて採用試験の倍率が下がっていますね。
講師経験者には筆記試験を免除するみたいなこともあるそうですが、
本当にそれでいいの、って気持ちもあります。
教員採用試験くらいの勉強をしない人が、教員になっていいんですかね。
ろくに勉強しない、本も読まない、知識も技能もない人が教員になるわけですよね。
ま、そういう人たちを一人前にしていくのが我々世代なんでしょうけど。
そんな余裕があるのかしら。