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対話

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教育業界では有名になった元麹町中工藤校長
 
この方が盛んに使う言葉が
 
対話
 
です。
工藤校長の書籍や発信を見た人は、何度も見かけたことがあるでしょう。
 
また、この「対話」という言葉は新しい学習指導要領でも
「対話的な学び」として登場しています。
 
このように、最近になってよく目にするようになった「対話」ですが、
工藤校長が使っている「対話」と
学校現場でよく見かける「対話」は違っているのではないかと思っています。
 
私が学校現場でよく見かける「対話」は
「○分間グループで話し合ってください」とか
「話し合いの手順通りに意見を出し合ってください」みたいな
いかにも型にはまった、時間制限のある、それこそ「話し合い」とも捉えられるものだと
思っています。
 
「え、なんか表面だけなぞった話してたり、型通りに話を進めたりしてるだけじゃん。これを『対話』とよんじゃっていいの?」って感じです。
 
私にとって「対話」とは
「互いの価値観、考えをすり合わせ、合意形成を行う」
「自分や他者の気持ちや考えを言語化し、理解する」
ことと考えています。
前者は、工藤校長が使う意味での「対話」だと考えています。
後者は、私なりの理解です。
 
先日、zoomの会に参加させて頂きました。県外の学校の先生数名との会です。かれこれ2年くらい、参加させて頂いています。僕は途中からの参加でしたが2時間程度ずっと話をしたり、聞いたりしていました。主なテーマはICTのことや、授業のこと、今の学校のことなどです。
 
このZoomの会では、話をしたり、聞いたりしながら自己を振り返り、モヤっとしている「自分のしたいこと」「自分が考えていること」を言語化して頂いています。もちろん話すだけではなくて「対話」→「実践」→「思考」を繰り返していくことで「自分のもの」になっていくように思います。ただ、一回の対話の時間も2時間以上とかかかるし、それを何ヶ月も続けていって、だんだんそうなっていくように思います。時間がかかる。

 

「対話」を過去の自分の授業から振り返ってみると、子どもたちが学習内容を理解したり、他者を理解したりする過程には、やっぱり相当量の「対話」が(中身はわからないけど)あって結果的に「分かった」とか「お互い理解し合うようになった」ことを見ていたんだろうなと思います。
 
このような経験から私は「対話」を「自分や他者の気持ちや考えを言語化し、理解する」
と捉えています。だから、学校現場で使われている「対話」に対して違和感を感じるんだろうなと思います。そもそもの目的が曖昧で、時間が短すぎます。
 
学校の先生方の中にも、私が考えるような「対話」を経験したことがある方はたくさんいると思います。「自分や他者の気持ちや考えを言語化し、理解する」とか「互いの価値観、考えをすり合わせ、合意形成を行う」ことは親や兄弟、パートナー、友人などと行ったことがある人は多いだろうし、雑談とか食事をしに行ったりする中で経験したことがある人もたくさんいると思います。
 
ただそれを「対話」によるもの、と捉えていない人は多いでしょう。だから形式的な「対話活動」とか「対話的な学び」みたいなことが行われるんだと思います。とはいえ、学校の業務の中で、授業の中で、2時間以上の「対話」を行うような余裕はないはずです。仕方のない部分はあるとは思いますが、それでも「話してみないと分からない」というスタンスくらいは持っておいて、意識するだけでもいいと思うし、時間をかけてお互いを理解し合ったり、合意形成をはかった時に「これこそ対話だよね」と価値づけてもいいのではないか、と思います。