【番外編】国語授業の常識を疑え!
『国語授業の「常識」を疑え!』について感想のブログを書きました。
一度書いては見たものの、長くなったり、読みにくいと感じてカットしたものを
「番外編」としてまとめました。もしよければお読みください。
漢字は1ページの常識
私は小学校の教師になってから数年間、毎日漢字のノートの宿題を1ページ出し、毎日添削していました。スタンプを押したり、花丸やABCの評価をしたりして、子どもの意欲を高める工夫そうすることに何の疑いも持っていませんでした。
手抜きをしてくる子、宿題をしない子に対しては、やり直しを命じました。漢字の点数が思わしくない子には課題を増やしたりしました。「宿題してないから、漢字のテストの点数が悪いんだろ」と思っていました。
それから何年か経った小学校の教師6年目の時です。字を書いたり、覚えたりすることに困難がある子を担任することになりました。どう修正させても、同じように書けないし、何度やっても漢字テストの点数は取れません。でも、その子は明るくて真面目なのです。「あなたが宿題をしてないから、漢字のテストの点数が悪いんだろ」とは言えません。だから「まあ、ほどほどでいいよ」と伝え、添削もほどほどにするようになりました。
その頃くらいから「1ページ書くことに何の意味があるのか」「この宿題はテストの点数につながっているのか」「漢字の学習は自分で取り組んでこそ意味があるのではないか」「毎日添削するのがしんどい」と思うようになっていました。学習が困難な子の存在もあって「漢字ノート1ページ」を疑うようになりました。それから数年後、思い切って1ページの宿題をやめて「自分で決めて、自分で取り組んでよい」という方法にしました。
結果、漢字のテストの点数があがりました。子どもたちの学習意欲も高まりました。その時「いったい今までやってきたことは何だったのか」と思うようになりました。ちょうどその頃くらいから漢字の学習だけでなく、学校独自で行っている指導や文化を疑い、問い直すようになり、自分にできる範囲で変えていくようにしました。
でもやっぱり、国語授業の常識は相変わらずのまま。
「おかしいよなあ」と思いつつ、真正面から批判もできず。
避け続けることで、うまく「折り合い」をつけてきました。
国語授業「常識」の呪い
『国語授業の「常識」を疑え!』の帯に
この「常識」のメリット・デメリット、いくつ説明できますか?
「初読の感想を書かせる」
「自由に書いてごらん」
こんな説明があります。私はもうこの時点でこの本に惹かれていました。本には国語授業の「常識」が22個紹介されています。その中でも私が特に共感したのがこの2つ。
「初読で、問い(疑問)を出させる」
「気持ちばかり話し合う」
本の中で説明されているように、国語の授業は「型」が見えにくく、教師が授業づくりの拠り所にするのが指導書や教師自身の経験だというのは同意です。そして、筆者が言うように国語授業は「常識のオンパレード」だとするなら、私を含めて多くの小学校の教師が行っている国語の授業は「常識」にとらわれた実践ばかりだと思います。
小学校の教師になってから13年。国語の授業に関して、自治体の研究団体や国語を専門にしている先輩、教育委員会主催の研修などで話を聞く機会は何度もありました。しかし、そのほとんどが納得できないものでした。例えば、初読で問いを出させる指導法。三読法とも言うそうなのですが、私はこの指導法を初任の時に教わりました。流れは以下のような流れです。
①題名のみを書いたプリントを子どもたちにわたし、題名から分かること、疑問に思うことを挙げる。
②はじめの文(一段落目やまとまり)を読み、「読みのめあて」(疑問に思うことや読んでいく時の目標)を立てる。
※この場面の板書を模造紙に書き、教室に掲示する。
③全文を読み、段落や場面ごとにまとめ、簡単に内容をまとめる。
※段落わけしたものを模造紙に書き、教室に掲示する。
④「読みのめあて」をもとに、各段落で詳しく読みたい「?」(疑問)を書き出す
※「?」を短冊状にし、段落分けした模造紙にはる。
⑤各場面(段落)ごとに、全文を板書し、読み確かめをしていく。その際、短冊に書いた疑問を解消してく。
※扱った場面はすべて模造紙に書き、教室に掲示する。
だいたいこのような流れです。その後も何度か国語の研究授業を見てきましたが、だいたいこのような流れが基本でした。一言で言えば「豪華なフルコースの授業」です。学習プリントの準備、1時間の授業にかける時間と熱量、そして模造紙の作成・・・はっきり言って、重たい。重たすぎます。もちろん教材研究、授業づくりを軽視しているわけではありません。小学校の教師が担っている仕事は国語の授業だけではありません。こんな実践は持続可能ではないと考えるからです。そして何より、子どもたちが置いてけぼりなのです。一部の子だけで授業が進み、子どもが分かったか理解したか分からないまま、黒板が完成していく。これには初任の私でさえ「おかしい」と思いました。
しかし、それを「おかしい」と言えない、思わせない文化がありました。「長く◯◯市の国語の研究会で研究されてきた指導方法」だと聖域化されていたからです。だから、私は国語の研究をずっと避け続けてきました。教師8年目の時に、どうしても国語の研究授業をしなければいけない時があったので、自分なりに授業づくりを行いましたが自治体の国語教育の大先生に指導を受けることになり、見事に潰されて、研究会の通りの授業を行うことになりました。
もう私にとって国語の授業は「呪い」でしかありませんでした。しかし今、土居先生の本を読み、国語授業の「常識」の数々に関して私が感じていた違和感、そして「呪い」が晴れたような気がしました。そうだ、そうなんだよ。読みながら何度も思いました。
ICTもいい。でもさ「学ぶ」とは何なんだい。
あなたの専門は何ですか?
小学校の教師になってから、何度も聞かれたことです。
私はいつも「特にありません」と答えるか最近なら「ICTです」と答えています。
GIGAスクール構想1年目、一人一台端末が導入されてから、校内でも自治体内でも
様々な活動や研修を行ってきました。自分自身も学級担任としてフル活用をしてきました。
ただ、学校現場のICTに関しても最近はうんざり。
「ICTをどのように活用するか」
もう何度も聞いてきました。端末導入したばかりの頃はよかった。「どのように活用するか」もわかります。しかし、もうGIGAスクール構想3年目。一人一台端末が導入されて3年がたとうとしています。いまだにこの言葉を聞くと「まだどのように活用するとか言ってんの?」と思います。「ICTをどう活用するか」という問いは「ノートをどう活用するか」とそう変わりはないのです。実にくだらない。
僕は最初から「ICTなんてどうでもいい」と思っていました。僕の関心は「子どもの学びをよりよくするにはどうすればいいか」なので、「ICT活用がよさそうなら使えばいいし、よさそうでなければ使わなくていい」と思っています。大人だってそうじゃないですか。手書きすることもあれば、スマホやタブレットを使うこともある。
私は一人一台端末が導入された時に「これで授業が変わる」「子ども主体の学びになる」と期待を膨らませていました。しかし現実は、ルールを作り、端末を使う時間を制限するだけ。結局、何も変わらなかった。が正直な感想です。
それは国語授業の常識がずっと常識のまま残り続けていること、自治体の研究団体の指導方法がずっと残り続けていることと、根は同じだと思っています。
しかし、愚痴を言い続けても変わりません。やる気を失って避け続けても変わりません。今『国語授業の「常識」を疑え!』を読み、自分にもできることをしようと思えました。その一つが「国語の授業づくりを勉強し直す」です。
貴重な示唆と勇気を与えてくれた『国語授業の「常識」を疑え!』の筆者、土居先生に感謝です。