できますか?「信頼して、任せて、待って、支える」コト
教育・子育ての基本は「信頼して、任せて、待って、支える」
教育哲学者の苫野一徳先生は、Voicyの中でこう話しています。
教育・子育てに関わる皆さんは、これをどう思いますか。
「確かにそうだ」
「そんなの当然でしょ」
「そんなこと言っても現実はなあ・・・」
いろいろな捉え方があるのではないかと思います。
今回の投稿では私自身が「信頼して、任せて、待って、支える」
ことをどのように捉え、学校で実践しているかについて書きたいと思います。
基本でありトレンド
「信頼して、任せて、待って、支える」は、この令和の時代に登場した考え方ではないと思います。
やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
山本五十六の有名な言葉にもあるように、人を育てる基本は昔から変わらないんだと思います。ただ、最近の教育関係の本は、そのほとんどが「信頼して、任せて、待って、支える」を挙げているように思います。よりその考え方が大事だと認識されるようになってきたからでしょうか。令和の時代の教育の「トレンド」とも言えるかもしれません。
私自身は、10年近く前『学び合い』に出会ってから、この言葉や考え方を知り、この言葉の必要性を実感してきました。今日、明日の子どもの変化ではなく、1ヶ月後、半年、1年以上先まで「待つ」ことで、教師の想像を超えた、子どもたちの学習意欲、創造性、つながり、成長をたくさんみてきました。
ある本に紹介されている言葉がすごく心に残っています。
「植物だって、急には成長しない。水を与えて、太陽の光を浴びて、時間をかけて成長し、そのうち花開く。人間だって一緒だよ」
でも、学校にはなかなかこの考え方が浸透していないように思います。
「信頼して…」は難しい
Voicyの中で、苫野先生はいくつか例を挙げていました。
・学校は「転ばぬ先の杖」のごとく、ルールをたくさん作っている
・学校内で手紙のやりとりを禁止している
・学校で使用する鉛筆の色まで揃えている
ご指摘の通り、私が勤める学校でも、これまで勤めてきた学校でもたくさんのルールがあり、禁止事項がありました。私自身も「なんでこんなルールがあるのか」と思うものもたくさんありますが、かといって「そのルールを見直しましょう」と言うことはできず、教室の中だけで子どもたちと一緒に見直すことに留めてきました。なぜなら「リスクを負えない」からです。
苫野先生も「十分に承知している」と言っていましたが、やっぱり学校は保護者の意見やクレームを恐れています。保護者対応に追われて、肝心の授業や学級経営がままならないこと、先生自身の生活まで影響を及ぼすことがあるのを知っているからです。
また、一つの不祥事でマスコミが大騒ぎしたり、教育委員会が謝罪することもしばしば目にします。たびたび教育委員会や管理職から「不祥事防止の指導」を受け続けていたら、リスクのあることをしようとは思えません。
悪質な「いじめ」が起きたら大問題ですし、保護者から「いじめじゃないか」という問い合わせがいつ来るかわかりません。鉛筆の色を揃えることだけで「いじめ」が起きるわけではありませんが、鉛筆を自由にすると、他の子の鉛筆が羨ましくて取ってしまうことはあります。手紙のやりとりだけで「いじめ」が起きるわけではありませんが、悪口を書いた手紙のやりとりから、不登校になってしまうこともあります。
学校の先生たちも子どもたちのことを「信頼して、任せて、待って、支えたい」をしたくないわけではないと思います。それ以上に、社会の目が厳しいこと、保護者のクレームが与える影響が大きいこと、教育委員会の圧力は強いことで、先生たちにリスクを負わない行動を取らせていると思います。
苫野先生もそこまで分かった上で発信していると思いますが、「子どもを信頼する」ことへの難しさは学校というより社会全体の問題ではないかと思います。
結局はバランス
社会の目が厳しい。保護者のクレームが怖い。だからといって、子どもたちを監視し、管理し続けることは限界があります。あくまで私の知る限りですが、ルールで縛り、「厳しく」指導することができず、学級経営が不安定になったり、教室に入れない子が増えてきているように思います。
そんな状態で「信頼して、任せて、待って、支えよう」といくら理想を持っても「そんなの無理に決まっているじゃん」「子どもの実態に合っていない」と相手にされないでしょう。
また、新任の先生や若手の先生が「信頼して、任せて、待って、支えよう」という理想を前面に押し出した実践をしたとしたら間違いなく失敗するでしょう。子どもたち「主体」であっても、主導権は子どもにわたしてはならないのです。このバランスをわからないまま、子どもに任せたとしても「放任」になるだけ。学級経営は不安定になり、トラブルは多発、保護者の批判も受けるでしょう。
理想は高く持ちつつも、主導権は教師。子どもたちの状態を見ながら少しずつ委ねていく
これが一番大事なのではないかと私は考えています。「ならどうすればいいんだ」と聞かれそうですが、これは簡単に説明できるものではありません。一つひとつの指示の出し方、声のかけ方、子どもに教える、考えさせる、委ねるのバランス、空白の時間の持たせ方、教科や授業の考え方・・・学年や集団の状態によっても違います。私も何度も失敗して学んできました。
一番多いのが「先生は何もしてくれない」という子どもの不満です。「自分でやってごらん」という言葉に慣れていない子どもにとって「任せられる」というのは不安そのもので、それは不満となり、矛先は教師に向きます。まずははじめは信頼関係をつくるところから。親切すぎてもいいかもしれません。
このように「信頼して、任せて、待って、支えよう」は簡単ではないと思っています。教師自身の力量、子どもたちの状態、周りの同僚との関係・・・様々な要因が関係していて、バランスが大事です。
それでも願うこと
それでも私は「子どもを信頼して、任せて、待って、支える」ことを発信していきたいし、心に留めておきたいと思っています。それは自分自身の経験から「きっとできる」というイメージがあるから、と思いますが、一番は子どもたちの声です。
先生は、子どものことを第一に考えてくれる先生です
勉強が楽しくなりました。苦手なことが少しできるようになりました。
友達と仲間がいる学校は楽しいです。
昨年度担任した子たちが話していたことです。教務を兼務しながらだったので、できることは限られていました。それでも子どもたちはクラスのことを好きになり、仲間たちとつながり学び続けました。私にとっては「ここまで削ぎ落としても、子どもたちはよい集団になるし、学ぶし、満足感を得られるのか」という経験になりました。
今はまた、担任から外れ、教務の立場。
担任の先生たちにメッセージを発する機会はたくさんあります。
届くかどうかはわかりませんが、届き続けるまで発信していきます。
私たち教師は子どもたちを「信頼して、任せて、待って、支えましょう」と。