アツイオモイはどちらへ
夏休みに入り、家族と一緒に出かけると「先生」と声をかけられることが何度かありました。
その中には、以前担任していた子や保護者がいました。
大学生や高校生になった子は、名前を言われるまで分かりません。
声をかけてもらえるだけ有難いことなのですが、その中の何人から「先生、『学び合い』広めていますか。先生の授業はとてもよかったです」と話してくれる子や保護者がいます。
そんな話を聞くたびに、胸の奥にしまっていた「アツイオモイ」らしきものが、溢れてくるような感覚になります。
以前「『学び合い』を広めたい。学校を、教育をよりよくしたい」という想いで突っ走っていた時期がありました。色々な自治体の『学び合い』の仲間を訪ねていた時、地元で『学び合い』の会やセミナーを開催していた時、ちょうど4年前、『学び合い』全国フォーラムの実行委員長を担った時・・・今考えれば「すごいエネルギーだったな」と思うほどの行動力だったように思います。
なぜそのように思っていたのか。それはやはり、子どもたちと保護者の声だったと思います。「『学び合い』のおかげで」この言葉を聞くたびに「『学び合い』は間違いない」と確信めいたものを感じていました。それと同時に「学校は変わらないといけない」と焦燥感に駆られていました。
自分の勤める学校で『学び合い』を広げていくことに限界を感じ、自分の周りで仲間を増やしていくことに躍起になっていました。たまたま私が勤める自治体の一つの中学校で、『学び合い』実践の高まりがあり、研究会ができたり、『学び合い』を実践する学校が増えたりすることもあり、私の活動の後押しをしてくれました。
そのままの勢いで、自身の実践を積み上げ、仲間を増やしていくはずでしたが、コロナ禍に突入し『学び合い』を実践することが難しくなりました。それまでのつながりは薄れ、頼りにしていた先輩方が現場を離れました。
私自身も学校を離れる時期があり、なりふり構わず『学び合い』を広げていくことよりも、自分自身の生き方に集中するようになりました。家族と過ごす時間、自分自身の心身の余裕、新たな職、担当・・・それらが僕の「『学び合い』を広めたい。学校を、教育をよりよくしたい」という気持ちを全面に出さないようになっていきました。
全くなくなったというわけではありません。令和3年度、途中から学級担任をすることになった時は『学び合い』を実践しましたし、自分の勤める学校で少しずつ発信を続けています。令和4年度からは『学び合い』の会を復活させました。
ただ、あの時のような「アツイオモイ」が滲み出ているわけではありません。想いや願いを語っているかといえば、そうでもなさそうです。そういえば、このブログの発信も滞っていました。
たまたま、最近観たドラマで主人公が力をこめて想いや願いを語っているシーンがありました。このドラマは以前も観たことがあったのですが、今になって胸に響くものがありました。
僕は何のために学校の教師をしているのか。
なぜ教務になったのか。自分に何ができるのか。
いつの時代においても大事なことは何か。
そんなことを語らずにいたように思います。
久しぶりにブログに書いて、自分自身の胸の高まりを感じました。
教え子たち、保護者たち、そして奮闘していた自分自身に恥じぬよう、
もう一度大事なことを見直して、お盆明けから頑張っていこうと思います。
まずは、オンラインで自主学習会でも開いてみようかしら。