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【法規】自治体の教育振興基本計画

【目を通しておきたい教育振興基本計画】

 

 

教育基本法(教育振興基本計画)

第十七条 政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない。

 地方公共団体は、前項の計画を参酌し、その地域の実情に応じ、当該地方公共団体における教育の振興のための施策に関する基本的な計画を定めるよう努めなければならない。

 

 

【法規】主任として

法規ではないけれど、主任として。

 

・学校の方針を職員に伝える際、何を気をつければいいか。

・自分の意見と対立する職員がいる際、どのように行動するか。

・児童理解に必要なものは何か

・市民に信頼されるために何ができるか

・職員間で一番大事にしていることは何か

 

 

どれだけこのようなことに向き合っているか。考えているか。自分なりの答えがあるか。

正解は一つではないけれど、その姿勢が求められている。

【法規】なぜ教員は法規を知らないといけないのか

まず、公務員として全体の奉仕者であること

また、教員が「信用」のもとに成り立っていること

が挙げられます。

 

次に職務上の義務、身分上の義務があることを知らなければ、

自身が何をしてよくて、何をしてはいけないのか分かりません。

 

他にも自身の権利を行使するためには、何が保証されていてるのか、制限されているのか

知らないといけません。

 

法規、すなわちルールは自分の立場を明確にし、自身の行いを律するためにあると思います。

【法規】主幹教諭と教務主任

【主幹教諭】

 

学校教育法第37条第9項 「主幹教諭は、校長(副校長を置く小学校にあっては、校長及び副校長)及び教頭を 助け、命を受けて校務の一部を整理し、並びに児童の教育をつかさどる。」

 

【教務主任】

 

教務主任は、校長の監督を受け、教育計画の立案その他の教務に関する事項について連絡調整に当たり、及び必要に応じて指導、助言を行う。 【学校教育法施行規則第44項第4項、公立小中学校管理規則第15条の2第2項】

 

【主幹教諭と教務主任のちがい】

 

一つ目は補佐の役割である。教務主任は「校長の監督」に基づいて職務を遂行する。一方、主幹教諭は校長、副校長、教頭を助けるという補佐の役割が示されている。二つ目は連絡調整の役割である。教務主任も連絡調整が職務内容であるが、主幹教諭は、校長、副校長、教頭の命を受けて校務の一部を整理するという役割が増えている。単に連絡調整のみでなく、校務を整理し会議や打ち合わせなどの準備を行うようになる。三つ目は、指導、助言を適切に行えることである。教務主任にも指導、助言の役割があったが、同僚間のためやりにくく、ためらうことがあった。主幹教諭は上司とされたことにより、指導、助言を行いやすくなっている。

【法規】体罰の禁止

 

学校教育法第11条〔児童,生徒等の懲戒〕


校長及び教員は,教育上必要があると認めるときは,文部科学大臣が定めるところにより, 児童,生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし,体罰を加えることはできない。

 

www.mext.go.jp

 

学校に行かない理由は様々だと思うけれど

学校に行かない理由は様々だと思います。

 

たとえば、家でゲームしたりYoutubeを観つづけて学校にいかないという子。

親や教師は「ゲーム依存症だ」「Youtubeが悪い」と決めつけるかもしれませんが、

根本的な原因ではないように思います。

 

「学校に行くより家でゲームをすることやYoutubeを見ることの方が楽しい」

 

というだけで、学校に行く意味がないと感じているだけかもしれません。

そしてそれはそれで筋が通っていると思います。

僕だって意味もなくつまらない場所に行くより、意味のある楽しい場所に行きたい。

 

学校で勉強しないと将来困る

学校に行くのは義務だ

 

そんな言葉はその子に通用しないでしょう。

「学校に行きたくない」と心の中では思っていても「行かないと行けない」という義務感で学校に通っている子は多くいるかもしれないですが、それよりも「つまらないから行かない」という子の方が自分の気持ちに素直になっているのではないかと思います。

 

そして、そのような子が学校に行こうと思うためにできることはとてもシンプルで

「ゲームよりもYoutubeよりも学校の方が楽しい」と思えればいいんだと思います。

 

そう思えることの一つが「誰かに貢献していること」ではないかと思います。

 

 

子どもというか大人だって、所属する場所で何かしら役割があって何かしら貢献していたら、その場所に行きたい、居たいと思うのではないか、と思います。

 

そう考えると僕の学級経営、授業はそれを目指していて「このクラスいい感じになった」と思う時は「子どもたちが学校に行った方がいい」と思っている状態だったのかもしれません。

 

いい夫婦の日

いい夫婦の日だそうですね。

今知りました。

夫婦になって、7年半。

たぶん、このまま何年も続いていくと思います。

 

実は「もう続かないかもしれない」と思ったことは過去にあったけれど、

毎回繋ぎ止めてくれるのは、妻のほう。これが当たり前ではないことは分かっています。

 

表面上つながってはいるけど、内心もう切れている

内心はつながりたいのに、ちょっとしたことで切れてしまう

 

そんな夫婦だってあるでしょう。

「いい夫婦の在り方」なんてものを目にしますが、そんな綺麗事ばかりじゃない。

でもやっぱり「いい夫婦」でいるためには、お互いに「いい夫婦でいよう」という気持ちが

ないと続かないように思います。

 

僕らがつながり続けているのは、妻の方が「いい夫婦でいよう」という気持ちを行動で示してくれるから。素直になれない僕の方がいつも救われています。

 

「いつもありがとう」なんて言うと、また仕事をたくさん頼まれるから言わないけれど、

 

僕が死ぬまで一緒に居続けること、

もし妻が動けなくなったとしても、最後まで寄り添うこと

 

こうしようと心に決めています。7年半でそう思えるだけのことをしてもらいました。

まあいつも思っていることだけど、言葉にしてみると恥ずかしいね。

 

理解したいものしか理解できない

 

 

人の本質は 「理解したいものしか理解できない」だ。 しかし経験という触媒によって 「理解できないものが理解できている」という瞬間が生まれる。

 

今の自分にとって、とても重みのある発信だった。

 

おそらくだけど発信者のfuru-tさんは周りから「理解されなかった」経験があるんだと思う。僕自身は直接会って話したことがあるけど、すごいというか憧れというかそんな気持ちだった。でも、近くにいる方にとっては「異質」だったり「関心を持たれない」のかもしれない。

 

僕自身も、『学び合い』ベースに教育実践をずっと行ってきたけど、

ほとんど同僚から関心を持たれなかった。

それなりにアピールも、見せる機会も、話す機会も持っていたんだけど、

結局「理解したいものしか理解できない」から、僕がどんな学級経営をしているのか

僕がどんな授業をしているのか、僕が何を目指しているのか、わからなかったんだろうな、と思う。

 

ICT活用が始まってからも同じで、僕自身が「個別最適な学び」をICT活用で実践、提案をしていったけど、まったく関心を持たれなかった。結局、僕のやっていることは「理解したいもの」ではなかったんだろうな、と思う。

 

「あいつらはどうせわからないからいいや」と思っているわけではなかった。

 

経験という触媒によって 「理解できないものが理解できている」という瞬間が生まれる。 この限界と可能性があるから、人は「対話」をするのだと思う。

 

そう、これは僕自身が『学び合い』に出会い、実践経験を積むことで、理解できていないものを理解できるようになったことに近い。『学び合い』を始める前は、宿題で漢字ノート1ページは当たり前と思っていた。それが数年かけて「漢字ノート1ページって何のためにするの」と思うようになっていったのと同じ。

 

だから、僕が「理解してほしい」と思う実践が「理解したいもの」でなければ、周りは理解しようとしないけれど、「対話」によって「おにさんがやっていることってそういうことなのね」と理解してくれる可能性はある。ま、相当な時間が必要だろうけど。

 

とはいえ、今年度の最大の武器は文科省などが発信していることをかなり読み込んだこと。

これを使えば、ひとまず後ろ盾にはなる。あとは、じわじわやっていくしかないな。

ひとまず、身近なつながりから。できれば、動き出したい。

 

 

 

『学び合い』が『』と表現されるワケ

『学び合い』とは、上越教育大学大学院の西川純教授が提唱する教育理論、教育実践です(この言い方は私がそう呼んでるだけです)

 

『学び合い』に『』(二重カギ括弧)が着くのは言葉通りの「学び合い」と区別するためにだと考えています。

 

『学び合い』は2つの観と1つの願いで構成されているので、おそらく名前自体は「西川純教育理論」でも「西川流アクティブラーニング」でもよかったけれど、シンプルに『学び合い』と名付けたんだろうなと思います。(憶測です)

 

ただ一つ問題があって、『学び合い』の実践において言葉どおりの「学び合い」はあくまでも一部、一場面であって、実際はもっと広いものを意味していると思います。極端な例を言えば、『学び合い』の実践において、教室の中には「学び合っていない」子どももいるし、

必要な時だけ周りと話して、あとはみんな自分の課題に取り組んでいる、なんてこともあります。でもそれらはすべて『学び合い』なんです。

 

こうなると『学び合い』を「学び合い」と捉えている方にとってはいったい何なのか分からなくなります。さらにいえば、今の現状では「学び合い」=「関わり合い」=制限という状態にあるので、「『学び合い』を実践しています」というと毛嫌いされてしまう可能性もあります。

 

『学び合い』は2つの観と1つの願いであるから、『学び合い』と呼ばなくても、それをさす記号は『』でもよいのであって「学び合い」という言葉が邪魔をするくらいなら外したほうがいい。という発想なのではないかな、と思います。

 

実際私も最近は「『』を実践してきました」というつもりで話をするようにして、「学び合う」ことを強調しません。「子どもたちが主体的に学ぶ授業」や「個別最適な学び」などというときもあります。

 

というわけで、私が勝手に考えた『学び合い』が『』と表現されるワケでした。

『学び合い』関係者の方々、どうですかね。

教師の時短術とは・・・です #1

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ここ数年、ほとんど居残りをしないようになりました。

一番の理由は「効率が悪いから」です。

 

一日中仕事して、定時以降も仕事なんてしようものなら、頭が働かず効率が一気に悪くなります。集中すれば20分で終わるものも60分かかったりします。しかも周りと雑談しながらしていたらなおさらです。

 

さて、そんな私が居残りをしないで済むために、行っている時短術があります。

これは、心掛け次第で誰でもできることです。

 

それは、

 

 

 

丸つけ系は子どもがいる時に終わらせる

 

 

です。

 

 

 

え、そんなこと?と思うかもしれませんが、私の経験上、放課後に丸つけをしたら

作業効率が半分以下になります。「子どもがいる時に終わらせる」という緊張感が

丸つけの効率を一気に加速させます。

 

また、子どもがいる間に丸つけをしたらいいことがたくさんあります。

 

✔️子どもにすぐ返却してやり直しをさせられる

✔️溜め込んで後から返却が大変ということがない

✔️「先生はすぐに返してくれる」という評価につながる

 

テストだったら、数日後に返しただけでも、もう内容忘れていることあります

後にしよう・・・としていたら次々と別の丸つけがやってきます

 

以前、テストを返却してなくて処分をされた教員がいたというニュースがありましたが

あれは間違いなく、「すぐに丸つけして返す」をしていれば起こらないトラブルです。

 

 

いやいや、子どもがいる間って・・・授業しているんだから丸つけする暇ないじゃんって思う方いると思いますが、そこは・・・いかに子どもたちに任せる時間を作るかが、ポイントになってくると思います。それはまたの機会に・・・